無為のうちに見る空の色と海の色は | 酒とホラの日々。

無為のうちに見る空の色と海の色は

インドネシアの離れ小島に出かけたとき、人々の生活は芋掘りとマンゴとり、それに魚とりがほとんどだった。
あるとき彼らと一緒に漁に出かけたことがあったのだけれど、その島の漁とは帆のついた比較的大きな筏に乗って、沖合に仕掛けを流し、魚が仕掛けに入り込むのを待ちながら、流される仕掛けを追って海を漂うだけなのである。

 
出漁の時こそ、帆にいっぱいの風を受けて勢いよく筏が滑り出していく様は勇壮であるけれど、一旦沖に出て仕掛けを流せば、後はただひたすら仕掛けとともにに流されるだけのことだ。

  
漁師は日に二度三度だけ仕掛けを確認し、後は取った魚で持ってきた酒を舐めながら、終日空を見、雲を見、ゆったりとうねる海を眺めて過ごすのである。  

天候と気分しだいで、漁は一週間のこともあれば一ヶ月にも及ぶこともある。海と空の間をひたすら漂流する漁である。

 
空や海のダイナミックな変化や極めて微細な色の違いが、漁の間ではこの上ない興趣を提供してくれ、そこに詩もできれば歌も起こるのだ。
 


またあるとき、私は山で雨にたたられ、たまたま通りかかった山の土木作業の飯場小屋に転がり込んで、二晩降り込められて宿の厄介になったことがあった。

 

 私がたまたま持っていたブランデーの瓶を宿のお礼に差し出したところ、滅多に人も通わない山の中の作業現場で、酒の備蓄も不足と偏りがちだったのか、ことのほかこれが喜ばれて、私は妙によい部屋に通されてお客様のように扱われたのだった。男たちは雨降りでも資材の積み直しや小屋の設備の補修など忙しかったが、お客様の私はすることがない。

 

小屋は夏でも冷え込む山の上のため何でも燃やせる鋳物のストーブがあったのだが、私はこの火を絶やさぬようたまに薪や木くずを加工した燃料をくべながら、ひたすら火を眺めて過ごすことになった。

 

火というものは不思議なもので、揺らめきいぶり立ち時にはぜ返る炎には表情があり、人の過去や未来、現在の心の内にわだかまる様々な思いをそっとなでていくように想念を刺激し揺さぶるのだった。 このとき意識の表面と奥底を、心地良く飽きることのない不思議な時間が流れていくのである。 
 

 
空も海も山の火も、それを眺めて何をするというわけではないのだが、川面に浮いた泡が流れていくように次々ととりとめもない想念が湧いては流れ、完全に思考の形を失った意識はやがて瞑想となる。そうして私たちは豊かな瞑想のうちに空や火を眺めることになるのだ。
  

 
もちろん今の私は毎日都会にあって、日々の多忙と喧噪を流されているが、時々あの空や火の色を鮮やかに思い出すことがある。
濛々とした塵芥のような情報の闇という虚無に向き合わねばならない私たちの求める、確かなものがそこに有るのかもしれない。