善悪2
人は、「よい悪い」という言葉によって、あれこれの具体的な事柄をどうしても思い浮かべてしまう。あれこれのよいと思われることや悪いと思われること、でも、それらは具体的なのだから相対的だ。だから「よい悪い」は相対的なもので、絶対的なものではないのだと、深く人は思い込んでいるんだ。でも、違う。それらのよいと思われることや、悪いと思われることを、そのように思われるようにしているものは、そこにある「よい悪い」というまさにその意味以外のものではない。これは絶対だ。これは動かない。だって、いいかい、君は、「よい」という言葉によって「悪い」の意味を、「悪い」という言葉によって「よい」の意味を、思うことがはたしてできるだろうか。
絶対に、できない。だから人は、「よい」とは絶対に「よい」であり、「悪い」とは絶対に「悪い」であるということを、やはり知っているんだ。「よい」と「悪い」という言葉がある限り、人は、「よい」と「悪い」とを明らかに知っているんだ。
引用:池田晶子「14歳からの哲学」
ここにも重要な指摘がある。
「よい悪い」は相対的なもので、絶対的なものではないのだと、深く人は思い込んでいる
はい、思い込んでいました。
「よい」と「悪い」という言葉がある限り、人は、「よい」と「悪い」とを明らかに知っている
言葉とは何だろうかと思ってしまう。
言葉がなけれぱ、よいも悪いも知らないでいられるのか。
言葉の意味。
「言葉」の章は、いちばんと言っていいくらい難しく、わかるような気もするが、わかった!とは言い切れないでいる。
よいとは、絶対によいである。
悪いとは、絶対に悪いである。
言葉の意味は動かない。
意味は絶対なのか。
なぜその言葉はその意味なのか。
またグルグルと回ってしまう。
まだ最終章まで到達してないが、「善悪」の章は、最も印象深く、また教えられることが多く、自分の深い思い込みにも気付かされる章だ。
~つづく~