善悪2
それでも人は、その「よい悪い」という言葉によって、あれこれの相対的な事柄を、やはりどうしても思い浮かべてしまう。それが普通には、道徳や慣習がよいとしている「よい」であり、法律や社会が悪いとしている「悪い」だ。でも、道徳や法律なんてものは、まさしく時代や国によって違う相対的なものなのだから、それらにおける「よい悪い」が相対的であるのは当然のことじゃないだろうか。なのに人は、絶対的な「よい悪い」も、相対的な「よい悪い」のような、道徳や法律のような具体的な形であるのだと思っている。でも道徳や法律は、自分の外にあるもの、時代や国によって変わるものなのだから、どうしてそんなものが絶対であるはずがあるだろう。
善悪の基準を自分の外に求めるという思い込みの根は、とにかく深い。まさにこの思い込みのために、人類において、道徳や法律は時代や国によって相対的となっているのであって、本当は話がまったくあべこべなのだけど、ここ数千年、人類はそのことに気がついていない。ごくごく少数の考える人しか、この当たり前すぎる事実には気がついていないんだ。
引用:池田晶子「14歳からの哲学」
説得力がある。
人類において、道徳や法律は時代や国によって相対的となっているのであって、本当は話がまったくあべこべ
よ~く考えると、全くそうなのである。
国や時代により、道徳や法律が変わるなんて、そんなものが絶対であるはずない。
けれど、その時代その国に暮らしている限り法律に従わないと罰せられることになる。
国や時代が違えば、罰せられないことだってあるのに。
ほんとうに変なことだ。
善悪の基準を自分の外に求めるという思い込みの根は、とにかく深い
全くその通りで、自分で考えるということをしないからなのか
または、自分で考えるということをさせないような世の風潮だからなのか
とにかく自分で考える前に自分の外に求めにいく、周りはどうしているかと気にする
このようなことが多くはないだろうか。
このことを何かおかしいとは思わないだろうか。
よ~く考えてみたい問題だ。
~つづく~