存在の謎2
考えるということには果てがない。謎に果てがないからだ。謎に果てがあったら、それは謎ではなくなってしまうのだから、謎というものには果てがないんだ。でも、謎に入口はいたるところにある。「ある」ことの当たり前に驚くなら、「ある」ことのすべてが謎の入口になっているんだ。
たとえば、SFを読まない君だって、毎晩夢は見るだろう。君は、あれが非常に奇妙なものだということに、気がついているだろうか。むろん、夢の中身は十分に奇妙なものだ。空を飛んだり、お化けから逃げたり、動物や他人に自分がなっていたりする。でも、もっと奇妙なのは、その奇妙なことを奇妙なことだと、夢の中では決して思わないということだ。奇妙なことは、夢を見るというそのこと自体なんだ。
夢の中で他人になっている君は、それを奇妙にも思わず、その他人が自分だと「わかる」。どうして、「わかる」のだろう。もしもその他人が自分であるなら、では、自分とは、その他人なのだろうか。それとも、その他人であると「わかる」自分なのだろうか。他人が自分であるとは、どういうことなのだろう。「自分」とは、いったい誰なのだろう。ここにも、「自分」の謎が、顔を出しているとわかるね。
引用:池田晶子「14歳からの哲学」
その奇妙なことを奇妙なことだと、夢の中では決して思わないということだ
まったくだ。
夢の中で、これは夢だ、自分は夢を見ているのだ、と気づいてみたい。
奇妙なことは、夢を見るというそのこと自体なんだ。
なぜ、夢というものを見るのだろう。
夢を見るとは、どういうことなのだろう。
それがわからないから謎なのだけれど。
奇妙と言えば、私たちは必ず眠る。
疲れを癒すためでもあるし、徹夜は何日も続かずに眠ることになる。
毎日繰り返しているこの「眠る」という行為、これはいったい何だろう。
眠るとはどういうことだろう。
眠っているときに見るのが夢というものなら、起きているときに経験している様々なことは、何なのだろう。
夢が奇妙であるなら、起きているときに経験する様々なことだって奇妙と言っていいのではないだろうか。
果たして夢だけが奇妙なのだろうか?などという考えが湧いてきた。
どこから、こんな奇妙な考えが湧いてくるのだろう。
~つづく~