南光坊天海 (165)
南光坊天海 (165) 「道明寺口ト同日ニ又八尾若江ノ戦アリ 是レ同シク東西両軍ノ本戦ニシテ時刻距離モ亦甚タ遠カラスト雖モ其方面其部隊各、殊ニシテ互ニ相聯絡セス。」(「日本戦史 大坂役」参謀本部) 八尾若江は、道明寺から北へ二里余(8Km)程しか離れておらず、大坂城からも東に二里(8km)ほどしか離れていなかった。この方面の司令官は木村重成(6千)と長宗我部盛親(5千3百)である。 5月2日、大坂方の山口弘定と内藤長秋は京街道に備えていた。すると東軍の主力が星田・千塚を通って道明寺に向かうとの風説を聞き、これを大坂城の秀頼に報告した。 5日朝、秀頼は、念のため弘定らに今福の地形を調べさせ、密偵の意見を聞かせたが、やはり徳川軍は、高野街道から道明寺に出るというのが、真実であろうとの意見であった。 「道明寺方面には、後藤・真田両将がすでに赴いているので、徳川軍を側面攻撃するよう陣地を選定し直すべきである。若江の東に磧地(かわら)で平衍(ひらけた)な土地があり、玉串川の屈折したところに大小の堤がある。楊柳繁茂を用いて陣地を作らせるのが良いであろう。」という事になった。 さて、この話をどのように解釈すべきであろうか。 治房は、4月26日星田に宿営している高虎を討とうと、暗峠の麓で待ち伏せをしたはずである。その時、治房は、高虎の陣替えの情報を正確につかんでいた。大坂方は当然こちらにも大軍が来ることは理解していたはずである。事実、冬の陣では秀忠がここを通っているのだ。 それなのに、淀川方面には何の備えもせず、5日になって今福方面の巡察をしたとは、俄かには信じられない話である。 大坂方の精鋭である後藤・真田隊、約2万人を大和口の道明寺から国分村に投入し、河内口方面は残りの部隊で対応するつもりだったのだろうか。 実際のところ、藤堂隊(5千)は、ずっと星田あたりに駐屯していたのであるから、大坂方も、徳川の主力が河内方面軍であることなど把握していたはずである。その藤堂隊と井伊隊が、6日未明、道明寺方面に南下を始めていた。 藤堂隊はやがて、側面から大坂方の大軍が接近していることに気づいた。高虎は家康から「勝手な戦闘は慎むように。」と言われていたが、現実は、そのような訳にもいかない。後続の直孝に「開戦」を告げると、家康秀忠本陣にもそれを伝えた。この地域は長瀬川と玉串川に挟まれた狭隘な地形で、水田地帯が広がっていたのであった。 高虎は、左先鋒・藤堂高刑に進撃を命じて、本隊の藤堂高吉・氏勝に側撃を命じた。長宗我部隊は、銃卒が遠くにいて藤堂隊に応戦するが、萱振村にいた戦闘の部隊は僅かに30~40名ほどであったため、すぐに敗走した。高刑は、これを八尾地蔵前まで追撃した。高虎もまた、玉串川の東堤に立ち指揮を執ったのであった。 高刑は、高野街道を南に進み、さらに田間の細道を西に向かい、玉串川の堤の西まで来た。敵の本隊は、地蔵堂の西にあると睨み、さらに八尾の西に出た。敵前1町まで迫ったが、銃卒はまだ到着していなかったので、高刑らは馬を下り、槍を構えると長瀬川の堤の上の敵に殺到したのであった。 長宗我部盛親は、麾下の三百騎を左右に配置し、下馬させて長瀬川の堤の上に伏せさせた。そして「命令前に立つものは斬り捨てる。」と厳命したのである。 藤堂隊が、堤の上目がけて駆け上がると、立ち上がった長宗我部隊は槍を揃えて堤の下に向けて攻撃を加えた。このため、藤堂隊はたちまち散乱し、死傷者に溢れ、高刑までもが討ち死にしたのであった。平泉洸 編『近世日本国民史附図』,近世日本国民史刊行会,1965.国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/3004185 (参照 2025-05-18)