南光坊天海 (152)

 

 

 

 

 「大御所、我すでに古希の齢にいたる打留の軍なれば、自身先陣すべしと仰せらる。御所聞召て、それがしかくてあらんに、御父上先手し給はん事勿体なし、かつて諸大名の聞所もいかがなり。是非に某に先手を命ぜらるべしと仰せけれども、大御所うけひかせ給はず。」(「台徳院殿御実紀」)

 

 「私も古希を超え、これが最後の戦いになるであろう。最早惜しむものもないので、この度は、私が先陣を切ろうと思う。」と家康が言うと、秀忠が顔色を変えて反論した。

 「何を御仰せでございましょう。父上に先陣を切らせるなど、勿体ないことです。そもそも周りの武将が何と思われますか。御父上に先陣を任せ、私が後方にいるなど、あってはならぬことです。」と秀忠は強く主張した。

 

 「よいか、私は、すでに隠居の身である。ここで命を落としても幕府に影響はない。しかし御所は違う。御所に何かあれば、幕府はどうなる。泰平の世が実現できなくなるではないか。」

 「なりませぬ、我らはこの戦いに必ず勝ちます。勝たねば何のための将軍でございましょう。」と秀忠は、なお食い下がった。

 

 「御父子の御論決せざるを見て、本多正信その間に入て、古より軍の前後は陣取の場所による事と承り候。大御所は二条におはしまし、将軍様は伏見に御着陣にて、敵に近ければ、将軍様御先手にすすませ給はん事、尤道理と存候と申ければ、大御所、佐渡はことの外古法しりなりとて、大に笑はせ給ひ其旨に任せらる。」(「台徳院殿御実紀」)

 

 父子の議論を聞いていた正信は、二人の話に割って入った。

 「いかがでございましょう。古来より軍の前後は、陣の前後に従うべきと申します。いま、大御所様は二条城におられ、将軍様は伏見に居られます。よって、将軍様先手が尤も道理にかなっております。」という。

 

 これを聞いて、家康は大笑いをした。

 「なるほど、確かに、我らは御所の軍を追いこさねばならぬな。佐渡は殊の外、古書に詳しいようだ。分かった、ならば佐渡の言葉に従おう。」と言った。

 

 「虞や虞や 汝を奈何せん。」(「史記」司馬遷)

 

 この話を聞いて、私は「垓下の戦い」を思い出していた。

 無類の強さを誇った楚王・項羽も、いつしか漢王・劉邦に追い詰められ、垓下城に籠城することになった。

 

 まだ強力な兵を持つ項羽を恐れ、漢軍は遠巻きに包囲するばかりである。そこで漢の名将・韓信は、正面の目立つところに劉邦の本陣を置き、自身はその前に布陣した。

 

 劉邦さえ討ち取れば勝てると思った項羽は、城から出ると劉邦の本陣を目がけて、全軍突撃を仕掛けたのである。

 

 前線の諸隊は瞬く間に葬られ、楚軍は韓信軍と激突した。韓信軍も楚軍を止めることができず、後退したのである。その時、孔藂軍と陳賀軍が左右から現れ挟撃したため、然しもの楚軍も支えきれず撤退した。

 

 項羽と共に垓下城に戻られたのは、僅かな兵であった。城外には楚兵の死体が累々と重なり合っていたのである。

 敗北を悟った項羽は、その夜の宴席で、四面から聞こえる故郷・楚の歌に慄然とする。楚の大司馬・周殷もすでに寝返っていたのである。

 

 この時、項羽は有名な「垓下の歌」を歌うと、800余りの兵を引き連れて江東に逃れようとした。しかし烏江で追いつかれて敗死するのである。

 

 つまり、家康は自ら前線に立つことで、大坂軍を引き付け、牢人衆を一気に葬り去ろうとしているのであろう。

 

西楚覇王・項羽