南光坊天海 (164)
「我らは今より、毛利隊に向かって攻め掛かる。しかしながら、真田隊が野中村(誉田西)にいるため、側面を攻められては危うい。そこで貴隊は真田隊に銃撃を加えて欲しい。」と勝成は言うが、政宗は頷かない。「今日のところは、進撃を止めよ。」というばかりであった。
午後二時半、八尾若江の敗戦により、大坂城から退却命令が来た。信繁は殿軍を務め、退却していったのである。
この時、信繁が「東軍百万と称するも、一人の男もいないのか。」と大言を吐いた、とか言うが、まぁどうでもよい話である。厳しい追撃戦を覚悟していたのに、誰も来ないので、拍子抜けしたのであろう。
この戦いで、徳川軍は戦死者180人、負傷者230人余であり、大坂方は戦死者210人余、俘虜5人であったという。
さて、皆さんはもうお忘れのことと思うが、徳川軍には第五番隊というものがあった。松平忠輝が率いる1万2千人である。
5月6日、朝遅く、忠輝は奈良を出陣した。奈良街道を進軍していると、既に開戦したとの知らせを受けたのである。驚いて急行するも、国分村に着いたのは昼近くであった。
すでに大勢は決していて、戦機を逃したことに忠輝は、大いに悔しがった。重臣の花井主水は、「今からでも出撃して、大坂方を追い掛けるべきだ。」と主張した。
そこで忠輝は、玉虫対馬と林平之丞にこれを問うたのである。
二人は「既に日が傾いて、敵は地理に詳しい。夜戦すれば必ず敗れる。むしろ明日の城攻めに全力を挙げ、人目を驚かせるべきである。」といった。
すると、皆川広照が忠輝に謁見しにきた。忠輝は二人の意見に従って、追撃をしないと告げた。
広照、曰く「たとえ、敵が3万の大軍であっても、1万を超えるわが軍が、加われば、お味方は6万にもなりまする。さらに敵は既に午前から激戦を重ねていて疲労しているでしょう。直ちに追撃して天王寺あたりで追いつけば、この戦いの第一の名誉を得られます。是非とも某に先導を命じてくだされ。」と言ったが、忠輝は頷かず、そのまま円明村に駐屯した。
忠輝は、身分の低い茶阿局の子として生まれた。やがて茶阿局は持って生まれた才覚で、家康のお気に入りの側室となった。
忠輝本人は、皆川城主の広照に預けられ、やがて「長沢松平家」を継承した。つまり広照はいわば親代わりである。
慶長8年(1603年)、この広照と長沢松平家の庶家・松平清直、老臣・山田重辰の三人が、粗暴な忠輝を強く諫め、ついに家康に直訴となった。しかし、これは広照らの敗訴となり、重辰は切腹、二人は改易となった。その後、京都で謹慎していたが、夏の陣では、嫡男と共に参戦していたのである。
忠輝は、冬の陣で江戸城留守居を命じられたが、これが大いに不満であった。それで居城の高田城からなかなか出陣しようとしなかったのである。心配した岳父である政宗から早く江戸に赴くように、強く諫められたのであった。
そこでの夏の陣では、大和口総大将という大役を担ったが、ここで大きな遅参を演じたのである。はたして、これから忠輝に待ち受ける運命は、如何なるものであろうか。
皆川広照
