南光坊天海 (153)
【大坂夏の陣②】
「廿四日常高尼、二位局をもて大坂に和議を仰せつかはさる。よて大蔵卿局。正榮尼をとも城中へかへされ、青木民部少輔一重は猶帰されず。」(「台徳院殿御実紀」)
和議のお礼のため、淀殿に駿府に遣わされた常高院と二位局は、そのまま名古屋城、二条城と連れ廻された挙句、書状を携えて大坂城に戻されることになった。
24日になって、大蔵卿局と正栄尼も大坂城にようやく帰れることになったが、青木一重は、なおも帰城を許されなかった。代わりに後藤庄三郎が派遣されることになったのである。所司代の板倉勝重は、一重を厳しい監視下に置き、もし勝手に大坂に戻ることがあれば、弟の可直を誅殺すると脅したのである。
常高院らは城中で秀頼母子に対面し、家康の書状を渡した。
「昨年来の戦乱で摂津・河内は荒廃し、農民は離散、年貢も滞っているはずである。和議が成立したのであれば、速やかに烏合の衆を放たねばならぬものを、誰一人放つことなく、あまつさえ、山林に潜伏する凶徒を集めている。城中では武具を修繕していて、大坂再叛の風説が専らである。
秀頼の血判未だ乾かずして、決して異圖あるとは思わぬが、世上の雑説詾々たれば、この際、摂津河内を引払い、大和国郡山に移られよ。五・七年の間に西尾豊後守と伊奈筑後守に申し付け、大坂城を元通りにしてあげよう。その時には、新規のお抱えも心のままで良い。」
「此御使には常高院に後藤庄三郎光次を添へて遣はされ、郡山へうつるべしと有りしに、淀殿大に怒り、庄三郎は商人なり、常高院は破戒の売僧なり、共に秀頼をうらんとするかと大に怒られ、早々立帰るべし。汝等もし武士ならば其儘すてをかじと有りしかば、この両人鼠の如く逃げ帰りしといふ。誠にや。」(「同上」)
この書状を見た淀殿の怒りは激しく、容易に納まらなかった。
「大坂にて是よりさき関東へ下したる青木一重幷に女使ども、いまだ帰り来おあぬうち、関東勢ははや追追上着すると聞大驚き、秀頼諸将を会議し各防戦の異見をとはしれに、関東軍は南へおし廻し、天王寺口よりかかるべし。城兵は十万の勢を二手にわけ、八町目へ押出し、両御所旗本へ突てかかり、一戦にて雌雄を決せんといふ。」(「同上」)
大坂城では、和議お礼のため関東に派遣した青木一重と常高院らがまだ帰ってもいない時期から、続々と関東軍が集結していることに驚きを感じていた。この事態に秀頼は諸将を集め、大坂城防衛のための会議を開いたのである。
譜代の重臣たちは、「関東の言う通り、ここは一旦、大和に移り、当面の危機を乗り切るのが上策である。」と献策した。
これに対して、牢人衆は、「大和に移っても、幕府により貧窮させられ、餓死させられるのは必定だ。関東の策謀に陥り恥を後世に晒すくらいなら、君臣ともに社稷を守り、一戦にて勝敗を決するが、勇将剛士の本望である。」と意見した。
秀頼と淀殿は、昨年の惣堀の事を思い、関東の言う事は信用ならないと考えた。太閤が心力を尽くし築いたこの城を出て、いまさら他所に移ることなどできようか、叶わぬとも両御所と一戦交えて討死するのも止むを得まい、と決断したのであった。
牢人衆は「関東軍は必ず埋め立てた城南の天王寺口を攻めてくるでしょう。我らは10万の兵を二手に分け八丁目口から押し出し、両御所の本陣に攻め掛かり、一戦を以て雌雄を決しましょう。」と言った。
秀頼はこれに納得し、翌日、隊列を整えると天王寺や住吉・岡山辺りを巡視して回った。この秀頼の雄姿に城兵の士気は大いに高まったのである。
郡山城
