南光坊天海 (154)
「世に伝ふる所は、毛利甲斐守秀元長府にあり。長門守秀就萩城に住す。秀元より萩城に使を五六度つかはし、出陣をすすむるといへども、秀就は遅延して出陣せず。家老福原越後、兒玉豊前は先達て兵庫迄出陣すといへども大坂へは進まず、秀元一人手勢を具し馳上る所に、播州室津に大坂より番船を出し、これをとどむる中をおし分て、明石と岩屋と両方より鉄砲を打ちかくるを事もせず、関東の味方毛利宰相と呼はり。舟を乗ぬけて五月七日の曙に参着せり。秀就あとより出陣せしが、はや大坂落城せし後なりしとぞ。」(「台徳院殿御実紀」)
毛利家は、冬の陣において輝元・秀就・秀元の出陣を要請された。
11月17日、輝元が摂津に入るとすぐに病を理由に帰国することになった。そこで輝元に代わり、嫡男の秀就が西上することになったのである。秀就は、秀元と共に冬の陣に参戦し、これが秀就にとっての初陣となった。
慶長20年1月下旬に漸く帰国した秀就であったが、間もなく大坂方との和議が破れると、幕府は4月18日に毛利家に再度出陣を命じた。
それから秀元は5~6回も萩にいる秀就に出陣を要請したが、遅延したままなかなか出陣しなかった。そこで4月28日、仕方なく秀元は、まず先鋒として自ら出陣したのである。
同じく関ケ原戦役で敗戦した上杉家や佐竹家が、将軍から感状をもらうほど奮戦したのに対して、毛利家は何とも不甲斐ない出陣となった。
「廿十六日、巳刻、御所二条城に渡らせ給ひ、御対面あり。両御所いよいよ廿八日大坂へ御進発あるべしと、諸軍に令せらる。藤堂和泉守高虎は淀より河州須奈に至り砦を構造し、大御所をむかへ奉らんとす。是より先京極丹波守高知、同若狭守忠高、石川主殿頭忠継は枚方森口より大坂にいり、山陰、西海の諸軍は神崎中島へおもむき、南海の諸軍は泉州よりむかひ、越後少将忠輝朝臣は大和口諸軍の惣督たるべし。」(「台徳院殿御実紀」)
26日、家康と秀忠は、28日の出陣について諸軍に命令を下した。徳川方の動員した兵力は15万5千人となった。
幕府軍の河内口の先鋒・藤堂高虎は、淀から河内国須奈村に向けて出撃し、井伊直孝も伏見から出陣した。二番は榊原康勝・酒井家次、三番は本多忠朝・松平康長、四番は松平忠直・前田利常であった。
「ことさら水野勝成には、汝に大和口の先鋒を命ずるは、我譜第の諸臣を歴観するに、汝が右に出る者なし。大和口の諸将汝が命を用ひざる者あらば、一二人を踏潰し其餘を懲すべし。しかしながら汝むかし少年の一本鎗の心得して、猥りに一箇の功を争うべからず。持重して惣軍を指揮すべし。」(「同上」)
そして、大和口の先鋒は水野勝成、二番は本多忠政、三番は松平忠明、四番は伊達政宗、五番は松平忠輝とされた。
さて、先鋒に抜擢された水野勝成という人物は、実に大変な人物である。
「譜代の家臣の中で汝の右に出る者はいない。」とまで家康に言わしめているのである。彼を表す言葉に「倫魁不羈」(余りにも凄すぎて誰も縛ることができない。)がある。要するに手に負えない人物なのだ。
もともと家康の配下であったが、信長に引き抜かれ、高天神城の戦いで、信長から感状を受けている。
甲州征伐、天目山の戦いにも参戦し、本能寺の変の後、家康の元に戻った。天正壬午の乱では、黒駒合戦で北条軍を破っている。その後、家康麾下で井伊直政らと武勇を争ったが、小牧長久手の戦いで父・忠重と大喧嘩してしまう。蟹江合戦で再び忠重と衝突して、遂に勘当されるのであった。
牢人となった勝成は、放浪の末、京都に辿り着き、無頼の仲間と交わって大喧嘩をし、多数の死傷者を出す騒ぎとなった。
水野勝成
