南光坊天海 (150)

 

 

 

 

 「十二日、家康ノ子尾張名古屋城主徳川義利(義直)、故紀伊和歌山城主浅野幸長ノ女ヲ娶ル。家康、名古屋城ニ其婚儀ニ列ス。」(「史料綜覧」)

 

 4月12日、家康は、名古屋で行われる家康の九男・義直の婚礼に列席した。この時、義直は16歳、春姫は14歳であった。

 

 実は、その間にも続々と軍令が発せられていた。

 3月下旬、内藤信正(長濱城主)に尼崎城、三宅康信(擧母城)に淀城の守備を命じている。また、牧野信成(書院番大頭)に伏見城を守らせている。

 4月1日には小笠原秀政(松本城主)に伏見城の加勢を命じ、武川衆を近江瀬田に出陣させた。

 4月4日、秀忠が諸軍に軍令を発した。これにより、本多忠政(桑名城主)、松平忠明(亀山城主)が居城を出立した。

 4月5日、藤堂高虎(安濃津城主)が宇治川、桂川あたりに陣を布き、周辺を警護した。

 4月6日、家康は、伊勢、美濃、尾張、三河等の大名に命じ、伏見・鳥羽まで進軍するように命じた。これにより、井伊直孝(彦根城主)が伏見に至る。

 4月7日、家康西国大名に出陣準備を命じる。

 4月9日、伊達政宗(仙台城主)が江戸を出立する。佐竹義宣(秋田城主)が居城から出陣する。

 4月10日、秀忠は、蒲生忠郷(会津城)、最上家親(山形城主)、鳥居忠政(岩城城主)に江戸城留守居を命じ、自ら軍を率いて江戸城を発った。また、上杉景勝(米沢城主)も、この日、居城から出陣している。京都に入った石川忠總(大垣城主)には高槻城守備を命じている。

 

 「織田長益入道有楽幷に武蔵守尚長父子参謁し、大坂城中新古の軍士を三部に分かち、七組の隊長幷に後藤又兵衛基次を一部とし、大野修理亮治長がこれを統領し、眞田左衛門佐幸村、明石掃部全登、渡辺内蔵助糺一部とし、木村長門守重成これを統領し、長曾我部宮内少輔盛親、毛利豊前守勝永、仙石豊前入道宗也を一部とし、大野主馬治房これを統領するとよし聞え上がる。」(「台徳院殿御実紀」)

 

 4月13日、家康の元に有楽斎織田尚長が訪れた。有楽斎は、大坂方として和睦を主導し、つい最近大坂城を脱出したばかりである。

 それなのに、有楽斎はべらべらと大坂城の内情を話し始めた。その様は秀頼の側近であった、という矜持は何もなく、「最初から徳川の間者」と思われても致し方ないほどであった。

 

 有楽斎によると、大坂方は本軍を三部に分け、一部は、大野治長を統領とし、七組隊長後藤基次隊を配下とした。二部は、木村重成を統領とし、真田信繁隊、明石掃部隊、渡辺糺隊を配下とした。三部は、大野治房を統領とし、長宗我部盛親隊、毛利勝永隊、仙石宗也隊を配下としたという。

 

 14日、名古屋は、大雨だったので、家康は、一日滞留することとした。その時、秀忠は、既に駿河国清水まで進んでいた。

 秀忠は15日には田中に到着した。家康名古屋を発ち、佐屋から船に乗って桑名に向かったのである。 

 本多忠朝は、秀忠先手として上洛した。すると、秀忠の使者として渡辺宗綱が訪れ、本軍が到着するまで城攻めはするな、と伝えてきた。

 これを聞いた家康は、「いくら待てと言われても、敵が討って出たなら、止められまい。」といったという。

 

 これは、秀忠が前回と同じ攻城戦を予想しているのに対し、家康は、野戦を確信していることが分かる。大坂城が裸城になったので、敵は必ず先手を取って、攻めてくると踏んでいるのだ。

 そもそも武将としての器量がまるで違うのである。