南光坊天海 (132)
南光坊天海 (132) 「夜中蜂須賀阿波守陣所え、城より夜討に入り、蜂須賀家中随分の者手負死人多し。大方百人に及ぶか。然れども深く相隠す間、分明ならず。」(「当代記」) 大野治房の配下に塙団右衛門直次というものがいた。もとは加藤喜明の鉄砲大将であったが、関ヶ原戦役ののち、主君と仲たがいして、加藤家を去った。その後、大坂の陣が起こると入城し、大野治房の配下となったのである。 治房の弟・治胤が守備していた博労淵砦を蜂須賀至鎮に奪われ、大野家が面目を失ったので、団右衛門は何とか雪辱したいと考えていた。 その時、蜂須賀家の武将・中村右近隊が淡路町通本町橋口の南に塹壕を掘り、柵を立て占拠していることを知った。 そこで団右衛門は「蜂須賀に一泡吹かせてやろう。」と考え、米田監物隊とともに襲撃することにしたのである。 団右衛門は、監物に北方の池田忠雄隊を警戒させると、12月17日丑の下刻(午前3時)、中村隊襲撃を決行した。 朧月夜に本町橋口から少人数に分かれて、城を抜け出ると、150余名で中村隊の柵に忍び寄った。決死隊は、肩に白い布を付け目印とし、「さいか」と呼べば、「さい」と答える符牒を整えたのである。 一方、中村隊は夜襲など全く想定しておらず、兵士たちは眠りこけていた。不寝番をしていた警備の者も談笑し、周囲への警戒を怠っていたのである。 突然の襲撃に具足を付ける間もなく、数十人が討ち取られた。隊長の中村右近も4~5人に囲まれて斬り死にしたのであった。 団右衛門は「夜討ちの大将塙団右衛門」と書かれた小札を陣中にまき散らすと、揚々と城に帰っていったのであった。 この団右衛門の襲撃で中村隊は100人を超える死傷者出した。しかし、蜂須賀至鎮は、これを家康に知られることを恐れ、事実を隠蔽したのであった。 「十七日、家康、敵夜襲ヲ聞キ、蜂須賀至鎮ヲ召見シ、其戦功ヲ賞シ、感状ヲ賜フ。至鎮カ父蓬庵、江戸ニアリ。秀忠亦之ニ書ヲ贈リ、至鎮ノ功ヲ称譽ス。」(「大坂御陣覚書」) 17日、至鎮は茶臼山に出向き、家康に昨日の夜討ちの報告をした。 「当家で討ち死にする者三十名、敵の首二十八首を討ち取った。」 いかに蜂須賀家が敵の夜襲に耐えて、柵を防戦したか、詳細に説明したのである。家康の使番・小栗又一はすぐに現場に走り、諸士から軍功を聞き取ったという。 それで、家康は板倉重昌を遣わし、「穢多崎合戦、博労淵砦の奪取、そしてこの度の不慮の夜襲の防戦で敵の首級を取る働き、実に見事である。至鎮の父・蓬庵とともに感状を授ける。」と伝えたのであった。 「是日(12月16日)、秀忠、水野監物、稲富宮内ヲシテ、佐竹氏ノ陣所ヨリ城中ヲ砲撃セシム。浅野長晟、敵弾重五六斤ナルヲ得テ之ヲ献ズ。」(「大坂御陣覚書」) 秀忠は三度にわたり、大坂城総攻撃を献策したが、家康は、決してこれを許さなかった。 「私はこれまで19回の大戦に臨んだ。万事私に任せておけばよい。」というのである。 『だが、今は私が将軍だ。』という言葉を秀忠は飲み込んだ。 家康は、力攻めでは大坂城を落とせないことを熟知している。 秀忠もまた、それは分かっていたのである。「本町橋夜討ち」二木謙一 著『大坂の陣 : 証言・史上最大の攻防戦』,中央公論社,1983.11.国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/12281302