南光坊天海 (142)

 

 

 

 「廿八日、御所二条の城御首途。関東へ赴かせ給ふ。在京諸大名もみないとま給はり、各地封地にかへる。」(「台徳院殿御實紀」)

 

 情に篤く、鬼になり切れない家康は、豊臣家を滅ぼすことに、若干の躊躇を感じていた。

 だが、将軍である秀忠は違う。豊臣家は、将来必ず幕府に仇をなすであろう。だから、ここで豊臣家を必ず潰さねばならない。そこに一欠片の迷いもなかったのである。

 

 大坂城二の丸・三の丸の埋め立てを確認すると、秀忠は岡山を離れ、二条城に戻った。これにより秀忠に従っていた諸大名も各々帰国の途に就いたのである。秀忠は、膳所城に一泊すると、崇伝に時服三襲、銀五十枚を与え、翌29日には水口に宿をとった。

 

 「大御所は御道すがら鷹放ち給ひつつ、浜松城につかせらる。」(「同上」)

 

 家康は方々で鷹狩を楽しみながら、中泉までやって来た。すると秀忠の使者として内藤正重が訪れたのである。

 

 「御所様は、28日に二条城から出立し、関東に向かわれました。それに従い、諸大名も各々帰国の途に就きました。

 大坂城の破却は成功しましたが、牢人衆は城を離れようとしません。城に入れない下衆共は、掘立て小屋を建てて、本丸外で暮らすものまでいるそうです。」

 

 「やはりそうか。」と家康は思う。高々60余万石の豊臣家に、10万人近い牢人衆を養えるはずがないのだ。秀頼は、牢人衆に豊臣家の仕官を約束しているはずで、今になってそれを反故にできないのである。

 

 「仕官を約束している以上、牢人衆を放逐すれば暴動を起こすかも知れぬ。大坂方も切るに切れないのであろうな。それに秀頼は、頼りになる牢人衆を手元に置きたいであろう。

 しかし、和平が成立した今、牢人衆は無用の長物でしかない。結局、秀頼は、牢人衆の圧力に負けて再武装をするであろう。」と家康は予測して見せた。

 

 正重は、首を傾げ「では大坂方は、どの様にすればよいのでございましょうか。」と尋ねると、

 「大坂城を捨てることだ。もうあそこには籠ることはできない。幕府に従順になり、素直に国替えに応じれば、移封先まで牢人衆はついて来られまい。」と家康は答えた。

 

 「だが、それはできぬ相談であろう。誰も淀を抑えきれない。大坂城には本当の意味での知恵者がいないのだ。」といって嘆息したのである。

 

 正重が戻るというので、「オレは暫くここで鷹狩をしている。御所が来るまで待っていると伝えよ。」と申し付けた。

 

 「(二月)五日岡崎より御使として、井上主計頭正就中泉の御旅館に参り、御所昨日岡崎につかせ給へば、七日には中泉に至らせ給ひて、御対面あるべしと仰進めらせらる。大御所御悦ありて、御旅館の酒掃を命ぜられ莚席をも新に設しめらる。」(「同上」)

 

 2月5日、中泉鷹狩をしていた家康の元に、使者として井上正就がやってきた。秀忠が、岡崎まで来たので、7日には、中泉に到着するという。家康は大いに喜び、旅館に酒の支度をさせ、歓待の席を設けさせた。

 

 7日、秀忠が中泉に到着すると、親子で祝杯を交わしたのち、本多正信・正純を招き、数刻にわたり密談したのであった。

 

 

徳川秀忠