南光坊天海 (125)
南光坊天海 (125) 「城兵西南の市街は皆自焼しけれど、城下の町をばいまだ焼きざりしに、寄手次第に陣替するを見て、市中の屋舎を寄手の柵にせらん事をうれひ、後刻今橋兵を出し、蜂須賀が陣前の市店を焼立る。」(「台徳院殿御実紀」) 大坂方は南側の町家が、徳川軍の柵や砦として使用されることを恐れて、悉く焼き払った。石川忠總は、高麗橋に火を掛けようとした城兵と戦い、激戦となった。先手の坂部政実は戦死し、大河内忠久も深手を負った。 双方は激しい銃撃戦を行ったため、本陣の家康は、佐久間政実、山城忠久を派遣して、早々引き上げるように命じたが、戦いは容易に終わらなかったのである。忠總は、ついに敵兵を追い払い、高麗橋を守ったのであった。 大坂城の南の町家が、悉く焼かれたことで、徳川軍の前に広大な大坂城の総構えが丸見えになった。高い石垣の上には、各部隊の幟が林立していたのである。この大坂城の壮大な構えに諸将は奮い立った。 「ありゃなんだ。」 大坂城平野口から八丁目口の高台に、板塀に囲まれた大きな砦が見えた。 秀忠が、幕府本陣のある住吉から大坂城を望むと、確かに篠山の後ろに城のようなものが見える。地図で確認すると、半月状の砦が描かれていた。 家康も眺めるが、篠山と砦が重なって一つの山に見える。 「これでは、良く分からん。」と憮然として言った。 「十二月二日、大御所茶臼山にならせられ、明後日此處へ御動座あるべしと仰出され、御一騎にて敵城ちかく見めぐり給ふ。平野の御陣にもかくと聞召、俄かに御出馬ありて、両御所駒並て御巡視あり。」(「同上」) 家康と秀忠は平野の陣近くまで、巡視に出かけた。本多正信・正純、成瀬正成、安藤直次が追いかけてきて、すぐに本陣に戻るように告げた。 大坂方では「大御所が城周りを視察しているようだ。」として大騒ぎとなり、狭間や塀の上からしきりに鉄砲を放ったという。その玉は、両御所の近くまで届き、雨のようであった。 本多、成瀬、安藤らは馬の口にすがりついて、「このような軽々しい行動はお慎まれ下され。直ちにここをお立ち退きください。」と引き留めた。それでも家康と秀忠は、馬上でゆるりと城を眺めていた。やがて二人は蜂須賀の陣まで進んだので、ここまで来れば大筒も届くまいと、お供のものはようやく安堵した。 松平正綱が総構えを巡察して戻ってきた。船場、天満、備前島、曝布郷、今市、青屋口、玉造口、榎並等の諸陣の形勢を報告したのである。 「城中先月十七日、会議せしに、眞田、後藤等は、住吉御着陣の夜御陣へ逆寄して、不意を討て其備定まらざる間に勝利を得んといふ。大野等、其は田舎漢が一揆争ひの計略といふものぞ。今度天下分目の一戦、日本の大軍を引きうけ、左様なる軽率なる計略を用ゆるべからずとて用ひず。木村は眞田、後藤が謀を用ゆるべしといさめ、七組の徒もこれに同意すといへども、大野更にしたがはず。」(「同上」) 実は先月17日の軍議において、真田と後藤が、「家康らが住吉に着陣すると同時に夜討ちを掛ける。」という策を提案していた。 「未だ備えが定まらぬうちに、逆に討って出れば、関東方が乱れる事必定。」と説いたのである。 これには木村重成や七手組頭も同調したが、大野治長は同意しなかった。 「そのような手法は田舎者の一揆がやることだ。我らは天下分け目の大戦をしているのに、そのような軽率な謀に同調できぬ。」と言うのである。 このやり取りを牢人衆の南条元忠という者が聞いていた。大坂城軍議中村時蔵 著『少年木村長門守重成』,大同館書店,昭和16.国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1718338(参照 2025-04-04)