南光坊天海 (104)
南光坊天海 (104) 「長政は更に其頃世上に持囃された勇健三十余人を召抱へ、『又兵衛父子、昨今大坂近傍に隠れ栖むとの事である。其方等手に合はば、又兵衛を討取って参れ。それが成らずば一子左門を召し捕って還れ、恩賞は其方等の望に委す』と命ぜられた。」(「大阪陣」) 基次が一僕を従えて、京の町を歩いていると、怪しげな風貌の二人の侍に出会った。基次は二人の目前で足を止め、 「お主らは大方、オレを討ち取りに来たのであろう、討てるものなら討ってみろ。」と言い放った。すると、刺客はすっかり気圧されて手が出せなかった。 二人は帰国し、切腹覚悟でこの事を正直に話すと、長政は、「これはオレの落ち度であった。二人の器量で又兵衛と渡り合うなど、望むべくもない。」といい、それぞれ百石加増としたという。 また、基次が播磨国池田家から捨扶持として5千石を受けていると、ここにも長政の刺客が現れ、挙動不審のものが、しばしば徘徊したが、基次は気にも留めなかった。 家康と秀頼の二条城の謁見の際、池田輝政は家康から基次を追放すように諭された。それでも輝政は基次を匿ったが、長政の抗議を受けて止むを得ず、基次を手放したのである。 やがて基次は旧知の藤堂高刑と伊勢で旧交を温めた。高刑は、粗菰に鎧を包んで背中に背負い、大小刀を帯びた基次の姿に、心を痛めたのである。 「用ゆれば、鼠も虎となり、用いらざれば、虎も鼠となる世哉。」 高刑はすぐに津に帰り、主君である高虎にこの事を告げた。高虎は8千石で登用しようと申し伝えたが、基次は「一万石でなければ御免蒙る。」といって、これを断った。高虎は「このまま放置していては、基次は大坂方に付くであろう。」と危惧したのである。 そこで家康に面会すると「このような英傑を彷徨させるは、大坂方に投ずるのも同然である。」として相応の処遇を求めた。 家康は、長政と基次を調停しようと考え、再び黒田家に仕官できぬものかと画策した。 基次の出した条件は、自身は筑前に出仕せず、京都に留まることであった。長政もついに我を折り、「母子を人質として福岡に差し出すこと、当家と折り合いの悪い諸侯との文通を止めること。」を条件に帰参を認めるとした。このような調停が慶長18年の冬から19年の夏まで延々と続いたのである。 すると9月21日、基次のもとに秀頼からの教書が届いた。 そこには「愈々、関東と近日手切の事に内定したれば、諸客兵の指揮偏に頼み思召す。」と書かれていたのである。 基次は長年の牢人生活で、すでに蓄えもなく、甲冑・鞍馬の用意も儘ならぬ有様であった。そこで基次から教えを受けていた門人たちは、互いに持ち出し、20両ばかり集めた。さらに所々に点在していた郎党たちも集まり、10名余りで大坂を目指したのである。 主従が、大坂市中に入ると、大野治長に使いを出し、「後藤又兵衛、ただ今参着いたしてござる。これより登城仕るべきや。それとも貴邸に参上すべきや。」と尋ねた。 治長は一旦、自分の邸に招き入れ休息を取らせた。そして、秀頼から白銀五百枚の下賜を受けたのである。 高虎が危惧したとおり、結局、基次は大坂方へと馳せ参じたのであった。黒田長政森末義彰, 谷信一 編『国史肖像集成』第3輯,目黒書店,昭和16.国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1682971 (参照 2025-03-01)