これまでの話 (79)
これまでの話 (79) お福は、天海が江戸城に登城すると聞いて、大いに慌てた。この機会に是非ともお目に掛かりたい、と思ったのである。 お福は侍女たちと共に、江戸城表畳敷きの広縁に待機していると、やがて三僧正がお付きの人と共に現れた。お福は人目も憚らず、天海に歩み寄ると、「お久しゅうございます。」と畳に手をついた。 天海は少し驚いた顔をしたが、すぐに手を取りお福を立たせ、 「ご健勝で何よりだ。ご活躍はお伺いしている。」と満面の笑みで称えた。 「すべては僧正様のお陰にございます。」と謝したのである。 周囲にいた者はあっけにとらわれた。竹千代の乳母と川越の僧正のどこに接点があるのか、誰も分からなかったのであろう。 家康の元に重大な報告が入った。側近の一人であり、伊奈忠次と並び関東総奉行を務めた年寄衆(老中)大久保長安が死んだのである。 長安は大久保を名乗っているが、元は大蔵信安という猿楽師の子である。当初、甲斐の武田家で猿楽師として仕えたが、信玄に見いだされ、家老・土屋昌続の与力となった。この時、大蔵から土屋に姓を改めている。 長安は蔵前衆として黒川金山の開発や税務管理を担当していた。武田家滅亡の後は、徳川家に仕え、大久保忠隣の与力となり、姓を大久保に改名したのである。 長安が自らの支配地に赴くときには、必ず美女20名、猿楽30名を引き連れていた。また遠路を行くときには、さらに上郎70~80人を加え、総勢250名を超える行列であった。行く先々で大宴会を重ね、近隣の人々は大いに迷惑したという。それにしても、この蓄財は何処から生み出されるのであろうか。正信はこの長安の豪勢な生活を疑った。 主人である家康は吝嗇家で知られ、無駄な出費を何より嫌ったのである。当然、家康と正信は、長安には表に出せない隠財があるに違いないと睨んでいた。そして、この頃になると鉱山の金銀産出量も減少の一途であった。二人は長安に鉄槌を下す時期を探っていたのである。 長安は「遺骸は金棺に納め、甲斐の国に送り盛大な葬儀を執り行うように。」と遺言した。この話を聞いた家康は、不快感をあらわにし、「遺言を実行することは罷りならん。」と厳命した。大久保邸には、生前世話になった諸侯の使者が、弔問に訪れた。しかし家康は、突然葬儀の中止を命じたのである。 「長安の生前の私曲が発覚した。不正を糺す。」として駿府は厳戒態勢に置かれたのであった。長安の7人の男子は全員切腹となった。そのほか手代は彦坂光正の配下に置かれた。これにより大久保長安家は断絶したのである。 しかし、大久保長安事件はこれだけでは終わらなかった。 慶長18年7月9日の夜、天海は駿府城本丸御殿の書院に呼ばれた。中には既に高虎が座っていた。 「お前たちには少し話をしておく。但し許しがあるまで口外するなよ。 よいか、長安の罪は単に不正蓄財のみではない。捜索したところ、長安の寝床には黒匵が隠されていた。その中には朝鮮と密かに交わした書状が隠されていた。さらに毒酒が保管され、武田家の系図や紋幕旗等を隠し持っていたというのだ。それで色々調べてみると、信玄の庶子に聖堂という者がいて、甲府の長園寺で住職をしていた。長安はこいつを誑かして信玄の遺物を奪い取ったというのだ。」という。日本文化の会 編集『日本を創った人びと』16,平凡社,1978.7.国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/12255294 (参照 2024-11-26)