これまでの話 (68)

 

 

 

 第168代座主となった妙法院常胤法親王は、豪盛が既に高齢(88歳)であったため、自ら探題として霜月會で講義することは困難であろうと考えていた。そこで後任に天海を推薦しようと、書状で駿府城の家康に天海帰山を願い出ていたのであった。その豪盛が死去したことで、遂に家康の許しを得ることができたのである。

 

 かくして天海は、正覚院豪海・妙音院快舜・海岸坊良範とともに「天台宗法華会廣学竪義探題職」を拝任したのであった。

 

  天海霜月會の準備で忙しく、京都比叡山を往復していた。たまたま倫子の寺にいるときに、幽斎の訃報に接したのであった。

 「幽斎様お亡くなりになられたのですか。」と倫子は驚いたように言った。

 「既に77歳であったから致し方あるまい。それにしても見事な生き様だと思う。」と天海は感慨深げに言う。かくいう天海も、すでに74歳である。いつの間にか、倫子も50歳を迎えつつあった。

 

 「幽斎殿は、もともとは足利将軍の家臣から、信長公の家臣となり、太閤様の家臣となった。そして最後は大御所様の家臣となっている。しかもその都度お家を大きくし、繁栄に導いている。多くの家が没落する中、これは奇跡と言ってよい。幽斎殿はまさに一代の英傑である。

 細川家は、明智家没落後も陰に陽に、一族を助けてくれた。珠子様の件も最善を尽くされたと思う。今となっては、幽斎殿には感謝しかない。ご冥福を祈るばかりである。」と天海は述壊するのであった。

 

  またしても駿府城に火災が発生した。御殿を焼いた大火災から既に9回目の失火だというから、不用心にも程がある。この度は瓦葺の倉が三十間ほど燃えたというのだ。この時、いち早く現場に駆け付けたのが、堀直寄である。厨房の屋根に上り、次々に指示を出して、大火を防いだのであった。

 

 家康は遠くからその様を見ていて、「あそこで指揮をしているものは誰だ。」と尋ねた。

 「堀丹後守(直寄)でございます。」と使いが言うと、家康はいたく感心したのであった。家康は、中井正次を派遣し、直寄に食籠酒瓶を下賜し、翌日には群臣居並ぶ中で、「丹後守のおかげで大火が防げた。」とその活躍を激賞した。

 

 家康は鷹狩をしながら江戸に向かって出立した。すると、城門傍らに堀直寄が蹲踞しているのを見かけたのである。すぐに家康は御輿に呼び寄せ、

 「お前は、私にとって譜代の家臣同然だ。これからは近習するように。」と命じた。また大久保長安に「良い土地があれば与えよ。」と命じたのであった。

 

 家康は江戸城に留まらず、方々で鷹狩を行っていた。今年、大御所の狩場には獲物が多く、家康は終始、御機嫌であった。

 

 そんな家康の元にまたしても訃報が舞い込んだのである。10月18日、本多忠勝が伊勢桑名で逝去した。享年63歳であった。

 

 鷹狩を終え、家康江戸城西ノ丸に戻った。茶阿局が甲斐甲斐しく、世話をするが、どうにも様子がおかしい。明らかに落胆している様子である。

 「どうなさりました。」と茶阿局は心配のあまり声を掛けた。

 「うむ。」と言ったまま家康は虚空を見つめていた。暫くすると、独り言のように呟いた。

 「馬鹿野郎だ。どいつもこいつも、なんでオレより先に逝くのだ。」というと目を瞑った。

 茶阿局は、家康の気持ちを慮って、静かに部屋を出たのである。

 

 

本多忠勝図(菊池容斎)

『日本美術画報』初篇(12),画報社,1895-05.

国立国会図書館デジタルコレクション

 https://dl.ndl.go.jp/pid/1518921

(参照 2024-10-25)