これまでの話 (54)
これまでの話 (54) 永禄元年(1558年)、母の重篤を知り会津に戻った随風は、その最期を看取ると、そのまま服喪の後、永禄3年に足利学校の門に入った。4年にわたり経典、史学、詩書、礼楽、諸子百家を学んだのであった。その結果、天台宗の宗義を究めんと考え、上野国新川善昌寺の道器和尚に師事した。 善昌寺は関東で最古の天台宗道場であるという。随風はここで寝食を忘れるほど学問に打ち込み、請われてここの住職となった。 永禄13年(1570年)の春、随風は知識を求め、再び修行の旅に出た。浄土宗蓮馨寺を訪ね、論弁を闘わせたのである。 元亀2年(1571年)9月14日、随風が甲斐国にいるとき、天台法華宗の開立の地である比叡山延暦寺が織田信長によって焼き討ちにあい、玉殿金社悉く灰燼に帰したと聞いた。随風は驚き悲しんで、地に伏して慟哭したという。その後、随風は信玄公の帰依を得て厚遇を得た。 天正2年(1574年)に蘆名盛氏が随風の高名を聞き、故郷会津に招き寄せた。随風38歳にして稲荷堂の別当になったのである。当時、盛氏は奥州の有力な戦国大名で、周囲からも一目置かれる存在となっていた。まさに蘆名家の絶頂期であった。 盛氏は、二階堂盛隆を養子として18代蘆名家当主を継がせ、天正8年(1580年)に亡くなると、蘆名家は盛隆に率いられることになった。ところが、天正12年(1584年)10月6日、盛隆は家臣によって暗殺されてしまうのである。 盛隆の後継は生後一月の亀王丸であった。このため亀王丸の母である彦姫が実質的な当主となり、兄である伊達輝宗が後見人となったのである。 同年、輝宗は、嫡男・政宗に家督を譲ると畠山義継との抗争で命を落とす。さらに亀王丸が僅か3歳で夭折してしまったため、さらに内紛が発生した。これに佐竹義広が勝利し、蘆名義広として第20代当主に就いたのである。 天正17年(1589年)政宗は米沢城から大森城に移り、5月には蘆名領に侵入した。 摺上原の戦いは一進一退の大激戦となったが、義広はついに力尽き、蘆名軍は壊滅したのである。 23歳の政宗と20歳の義広という青年武将同士の決戦であり、両軍とも機動力に長けた稀に見る激戦であった。蘆名軍の戦死者は2500人、伊達軍は500人が討ち死にしたという。 義広は一旦黒川城に退却したが、既に城を守る兵力もなく、会津を捨てて、白河まで退却し、実家である佐竹家に戻った。随風もまた義広に従って会津から離れた。 天正8年(1590年)、小田原征伐で東下していた秀吉に政宗は恭順し、摺上原の戦いで得た蘆名領をすべて没収されたのである。ただこの所領は蘆名家に返還されることはなく、豊臣大名である蒲生氏郷に与えられた。 義広は秀吉から実父である佐竹義重の与力大名として江戸崎4万5千石を与えられた。近世大名としての蘆名家は存続を許されたのである。この時、義広は名前を「盛重」に改めたという。 盛重は、衰退していた中興開山に江戸崎不動院を再建すると、会津から付き従ってくれた随風を第八代住職としたのである。随風はここに17年間住んだ。 慶長5年(1600年)関ケ原の戦いが起きると、佐竹家は一時、景勝に付く素振りを見せた。このため、慶長7年(1602年)秋田に減封となり、蘆名家も同様に角館1万6千石に減封されたのである。しかし、既に齢66歳となっていた随風は角館には同行せず、住み慣れた江戸崎不動院に残ったのであった。後藤寿一 著『伊達政宗に学ぶ悪の交渉力 :上司を操るための18章,泰流社,1987.6. 国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/11985022 (参照 2024-09-02)