これまでの話 ㉙
これまでの話 ㉙ 島津軍の殿を務めたのは、副将格の豊久であった。島津軍が烏頭坂付近まで来ると、豊久はそこで踏みとどまり、追撃隊に切りかかっていった。豊久は最後まで奮戦したが、重傷を負い自刃したのであった。 義弘は南宮山を離脱する長曾我部・長束軍と遭遇する。正家は満身創痍の島津軍をみて、わざわざ道案内をつけてくれたという。義弘は正家の厚情に感謝するとともに、僅かになった供回りと共に伊勢路を落ち延びていったのであった。 関ケ原の敗報を知った長曾我部盛親は、長束隊と共に伊勢路を落ちていった。伊賀から和泉に逃れ、大坂から土佐に渡ったという。一方、長束正家は居城である水口城に戻り籠城したが、亀井玆矩・池田長吉に欺かれて捕縛されている。 安国寺恵瓊は秀元の軍に隠れ、京都まで逃れた。鞍馬寺、本願寺と身を寄せたが、最後は奥平隊に捕縛されたのである。 9月17日、佐和山城は、徳川勢に包囲され、城兵を助命する代わりに石田一族は全員切腹して果てた。 9月19日、家康が草津に入ると伊吹山に逃亡していた小西行長が捕らえられたとの報が届く。 9月21日、大津城にいた家康のもとに、北近江で三成が捕らえられたとの知らせが入ったのであった。 泥濘の木曾路を進む秀忠軍は、強行に次ぐ強行で美濃を目指した。遠山友政は木曽路の領民が戦乱を恐れ、山中に逃れたと聞き、所々に立札を立てて離散した民を家に戻らせ、秀忠軍に食料や馬を供給させたという。 20日に草津までたどり着いた秀忠であったが、大津城の家康は激怒していて会おうとしなかったのである。 これほどの失態であれば、誰かが責任を取らねばならぬ。秀忠に腹を切らせるわけにはいくまいから、責任を取るなら正信である。家康は悩んでいた。正信にはまだ、やるべき仕事があるのだ。ここで死なせるわけにはいかなかったのである。 康政と正純は、懸命に辯疏に努めた。こうして23日になり、家康はようやく大津城で秀忠に面会したのである。 立花宗茂は1,800人を率いて伊勢に侵攻し、大津城攻めに参加した。ところが、大津城が落城した翌日に、関ケ原の戦いは終わってしまったのである。 敗報を聞き、宗茂は大津城を後にすると、大坂城に向かった。ここで乾坤一擲の決戦が行われると信じていたのである。 「大坂籠城の際には、是非共一方の持口を承りたい、至急御返答を得た上で入城いたしたい。」と輝元と奉行の増田長盛に申し出たのであるが、「現在評議中だ。」というのである。 「今頃考えているとは、さすがは輝元公だ。こんな有様では到底、内府には勝てない。」と考え、大坂に人質になっていた老母・釆黄院を連れ出し、川を下り9月17日大坂を出航したのである。 一方、関ケ原を脱出した義弘は伊勢街道を南下して、落武者狩りをかわしながら摂津国住吉に入った。義弘は旧知の商人であった田辺屋道与のもとに転がり込むのである。道与は「義弘は死んだ。」と聞かされていたので、さぞかし気が動転したことであろう。島津義弘中沢巠夫 著 ほか『人物日本歴史』3(戦国時代~江戸時代初期),東西文明社,昭和34.国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1627840 (参照 2024- 05-31)