これまでの話 ⑯
これまでの話 ⑯ 順天城は高虎が縄張りした堅城で13700人の兵が在城していた。西路軍(2万3千人)を指揮する劉綖は、全州まで来ると順天城の小西行長に和議を申し入れた。劉綖は行長が和議に積極的なのを知っていて、欺いて生け捕りにしようと思ったのである。 「二人で直接会って交渉しよう。」と言われ、行長は、松浦鎮信が止めるのも聞かず出かけて行った。しかし待ち伏せが露見し、行長は慌てて引き返したのであった。 こうして西路軍と明・朝鮮水軍(2万6千人)による順天城の攻防戦が始まったのである。 劉綖は三方から総攻撃を加えたが、余りにも堅牢な順天城によって徒に死者を出すばかりであった。水路軍も砲撃を加えたが、3日にわたる攻撃でも石垣にすらたどり着くこともできなかったのである。劉綖は多数の攻城兵器を用いたが、日本軍は城外に討って出て焼き払ったのである。かくして劉綖は1万の抑えの兵を置いて順天城から撤退した。 慶長3年(1598年)10月1日、家康と利家の撤退の内命を受けて、蔚山城の清正は整然と釜山に撤退した。泗川新城の島津義弘は明軍と和議を結び、これも釜山まで撤退したのである。 一足先に筑前に帰還していた高虎は、自ら朝鮮に渡り、清正・黒田長政らと帰国の段取りを決めていたのであった。 ようやく和議が成立し、行長は釜山への撤退を始めた。ところがこの和議に李舜臣と水路軍は徹底的に反対し、海上を封鎖したのである。高虎は救援のため朝鮮出兵を直訴するが、利家に却下されてしまうのであった。 巨勢島に集結していた島津義弘、宗義智、立花宗茂、寺沢広高らは行長の救援を決意し、300艘の船を兵装し、順天城を目指した。先頭は島津軍であったが、中型の関船が中心で、大型の安宅船は輸送船に盾を並べただけの簡易な兵装であった。日本軍の接近を知った明・朝鮮水軍は露梁津に移動した。 11月17日、島津軍を先頭に露梁津を通過すると、待ち伏せをしていた明・朝鮮軍が南北から挟み撃ちをしたのである。奇襲を受けた島津軍は混乱したが、義弘はすぐに態勢を立て直し反撃に出る。薄い兵装であったが、島津軍は豊富な火器を有していたのである。 明・朝鮮軍が火矢を放ち、熊手で船を引き寄せると、島津軍は頭上から砲火を浴びせた。この乱戦の中、李舜臣が胸を撃ち抜かれ絶命する。両軍入り乱れての乱戦となったが、この間に、小西軍は順天城の脱出に成功する。 これを知った日本軍は直ちに撤退を始めた。結局、撤退戦も島津軍が殿軍となった。激しく追撃する明・朝鮮軍に追いつかれ、義弘の乗った安宅船はついに包囲される。しかし義弘の船には多くの鉄砲隊を乗せていたので、敵に何度も斉射を浴びせて、ついに逃げ切ったのであった。 日本軍は、小西軍撤退の目標を果たしたが、島津軍の被害は甚大であった。川上久国は、立花家がほとんど無傷なのを知り、島津家の被害が、あまりに大きいことを嘆いたという。 この戦いは露梁海戦と呼ばれ、朝鮮水軍の華々しい勝利とされている。しかしながら、日本で名のある武将が、誰も死んでいないのに対して、明・朝鮮軍は鄧子龍(明軍副将)、李舜臣(朝鮮統制使)、李英男(加里浦僉使)、方徳龍(楽安郡守)、高徳蒋(興陽県監)等の将軍級が多数死んでいるのである。参謀本部 編『日本戦史』朝鮮役 (経過表・附表附図一部),偕行社,大正13.国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/936357(参照 2024-03-15)