南光坊天海 (92)
南光坊天海 (92) 「慶長十九年五月廿日、幕府旗下ノ士美濃明智ノ遠山利景歿ス。」(「史料綜覧」) ここのところ暖かい日が続いていて、病人にとってはありがたい限りだ。床に就いている時間が長くなって、どれほど時がたったのかも分からないほどである。身を切られるような痛さや苦しさも、今は鈍痛のようになり、時が止まったようである。 このところ子供の頃の夢をよく見る。父母と暮らした日々は10年ほどでしかなかったのに、いつまでも心から離れないものだ。寺に入ってからは、時折訪れてくれる母を心待ちにしていた。あれから随分と時間がたってしまったものである。 父である遠山景行は武田家との上村合戦で敗れ、自刃した。義兄・景玄もその時死んでいる。次兄・友治も明知城の戦いで死んだ。利景は還俗し、まだ幼い景玄の嫡男・一行と母らを連れて三河足助城の鈴木家を頼った。 長篠の戦いの後、明知城を奪還するも、本能寺の変で事態は一変し、森長可によって東美濃は制圧された。長可によって人質に取られた一行の長女・阿子は矢作川で磔にされたのである。 それから小牧長久手の戦いで再び明知城を奪還したが、秀吉と家康の講和で再び、明知城を追われたのであった。 以降は家康に仕え、旗本に取り立てられ、上総国中村で所領を得た。関ケ原の戦いは東濃で戦い、16年ぶりに明知城を奪還したのである。 「苦しいことも多かったが、明知城に戻ってこられたのは僥倖であった。すべては大御所様のお陰である。大御所にお別れを言えなかったのが心残りであるが、まぁ、兄者がよろしく伝えてくれるであろう。」 思えば、長兄・弥平治は、気づいたときには、三宅家に養子に出ていて、以後は明智家の重臣として義父・三宅長閑斎と共に畿内を転戦していた。 本能寺の変後、旅の僧になって突然、駿府に現れた時は、本当に驚いたものだ。三宅弥平治は、いつしか明智秀満となり、今は南光坊天海を名乗っている。いつの間にか、一番長い付き合いとなった。 それから、しばらく利景はうつらうつらと眠ってしまった。襖をあけて、誰かが入ってきたような気がした。 「はて、伝蔵であろうか。」と目を開けると、死んだはずの景行が枕元に正座して、利景をのぞき込んでいた。 「これは、父上でございましたか。失礼しました。」と利景は起き上がろうとしたが、どうにも体は動かなかった。 景行はそっと顔を近づけ、耳元で囁いた。「勘右衛門、よう頑張ったな。」 すると、見る見る利景の目から涙があふれ、 「はい、頑張りました。さほどの才もなく、さほどの武勇もないながら、勘右衛門は諦めず、最後まで頑張りました。」と告げた。 景行は何度も頷くと、「誇りに思うぞ。」といった。 「父上、私の苦労は全て報われました。私はきっと、父上に褒めていただきたくて、今日まで頑張って来たのです。これでもう何も思い残すこともありません。」と利景は泣きながら微笑んだのである。 従五位民部少輔、遠山勘右衛門利景は慶長19年(1614年)5月20日に逝去した。享年は75歳である。最後まで再建を願った満昌寺の建立は、ついに見届けることはできなかった。 旗本・明知遠山家は嫡男・方景が継いだ。「史跡探訪記」様 写真ギャラリーから転載(奥から遠山景行,利景,方景の墓)