南光坊天海 (73)
「慶長十八年正月廿五日、播磨姫路城主池田輝政卒ス。長子玄隆(利隆)嗣グ。幕府、播磨三郡ヲ割キテ、次子備前岡山城主忠継ニ加増ス。尋デ、玄隆・忠継、駿府及ビ江戸ニ至リ、之ヲ謝ス。」(「史料綜覧」)
慶長18年(1613年)1月24日、池田輝政は中風を再発し、吐血したという。中風(卒中)とは、「卒然として中る病」、つまり悪い風にあたり、突然体が動かなくなる病気とされていた。
現在で言うと「脳梗塞」や「脳溢血」のような病であろう。その発作を「卒中」と呼び、後遺症が残った状態を「中風」と呼んだという。
輝政の場合、「吐血」があったようである。一般的に脳梗塞等では、頭痛や嘔吐は知られているが、吐血は余りないようだ。輝政の中風は、再発なので既に合併症に冒されていたのかもしれない。
倒れた時は既に言葉も発せぬ状態であったため、急ぎ駿府に使者を立てた。急使は28日に駿府に到着し、家康を大いに驚かせた。すぐに大番・黒川八左衛門に「烏犀圓」を持たせ、姫路に派遣したが、輝政は既に25日にこと切れていたという。まだ50歳であった。
輝政にはつぎの逸話がある。
小牧長久手の戦いで父・恒興と兄・元助とともに徳川勢と戦っった。
家康は小牧山城に、秀吉は犬山城に着陣すると、膠着状態となる。局面を打開するため、恒興は、秀吉に「三河中入り作戦」を献策したという。
豊臣秀次を大将とした2万の「中入軍」は小牧山城を迂回して、直接三河に攻め込もうとした。しかし、これを察した家康は各個撃破を決意して出陣したのである。
まず、徳川軍の水野・丹羽・榊原隊は白林山で秀次隊を壊滅させるが、桧ケ根で羽柴軍の堀秀政隊と交戦して敗走した。堀隊は、なおも追撃しようとしたが、家康本隊が迫っていることを知って退却した。
その後、長久手方面で池田恒興・森長可軍8千人と徳川・織田信雄軍9千300人が激突したのである。戦況は一進一退の激戦であったが、鬼武蔵と言われた森長可が狙撃されて即死したことで、徳川軍が有利となり、恒興が永井直勝に、元助も安藤直次に討たれ、池田・森軍は総崩れとなった。輝政はこの日の敗戦を生涯忘れなかったようである。
家康の娘・督姫を娶り、伏見城の徳川屋敷を訪れた時、恒興を討った永井直勝を呼び、父の最期を語らせたという。
最後に直勝の石高が5千石と聞くと、忽ち不機嫌となり、「我が父の首は僅か5千石であるか。」と嘆いたという。輝政は家康に直勝の加増を言上し、1万石の大名としたという。
輝政の死後、嫡男・利隆は遺領のうち姫路42万石を相続し、西播磨3郡は弟・忠継に分与した。これによって忠継は岡山38万石を領するに至ったのである。実は、嫡男・利隆は中川清秀の娘・糸子であり、忠継の母は家康の娘・督姫であった。
「輝政、幼にして倜儻長ずるに及びて、雄威、人となり剛直にして、下に臨むに寛なり、大く名士を招致し、孝梯を旌表し、上に勤めて夙夜懈たらず卒するに及び、上下駭惋せざるものなし。」(「名将言行録」)
輝政は人間としても優れていたようで、家康はその死を大いに嘆いたという。
播磨姫路52万石は、西国大名と大坂城を分断する役割を担っていた。このため、数十万の大軍に包囲されても容易に落ちない城を築かねばならなかったのである。輝政の築いた白亜の巨城・姫路城は現存し、日本初の世界遺産となった。
姫路城
