南光坊天海 (89)

 

 

 

 「慶長十九年三月十二日、此日駿府にては浅間の神能あり。大御所、義直頼宣両卿、頼房朝臣を伴ひてならせられ御覧ぜらる。一乗院門跡尊勢、北院、南光坊天海、月山寺、薬樹院慶存、賓亀院、大楽院、明王院光算、その外五山の僧等、みな見ることをゆるされて陪従す。」(「台徳院殿御實紀」)

 

 家康は、3月10日に浅間の猿楽を催そうと準備をしていたが、当日は生憎の雨で中止せざるを得なかった。

 そこで3月12日、改めて猿楽を催したのである。その席には五山の僧らとともに天海の姿もあった。忠隣の書状はその後も沙汰はなく、天海の赦免嘆願は不発に終わったのである。「これもいた仕方のないことである。」と天海は思っていた。

 

 天海への書状が不発に終わったと知った忠隣は、改めて「叛心あらざる旨」の訴状を書いたが、近臣は悉く家康を恐れて取り次ぐ者がいなかったのである。見るに見かねて成瀬正成がその訴状を預かり、家康に見せた。家康は訴状を見たが、やはりなんの沙汰もなかったのであった。

 

 「慶長十九年三月十六日、南光坊も一昨日上洛候、三月十八日板倉勝重宛書状案」

 (「本光国師日記」)

 「四月大十日南光坊卯月四日之状來、梅津之者届ル由候而真乗院被持來也。」(「同」)

 

 さて、「本光国師日記」によると3月12日に駿府で猿楽を見学した天海は3月16日には上洛している、という。わずか4日後であるから、さすがに早すぎる気がする。根拠は板倉勝重宛書状(3月18日)に「一昨日」とあるからだが、いささか疑問が残るのだ。

 ただ、4月10日には間違いなく京都にいたようである。

 

 さて、駿府城を離れ、美濃明知城に戻った利景は、飯高山満昌寺の再建に奔走していた。岩村藩との調整も終わり、明知遠山家の菩提寺である龍護寺を開山した椽室宗採に再興を頼んだのである。

 

 慶長17年(1612年)に利景は満昌寺で祀られていた聖観世音菩薩を本尊として、観音寺を開山した。思えば、あれからもう2年である。

 

 「ようやく目途が立ったな。思ったより時間がかかってしまった。」と利景は、側近の阿寺伝蔵に安堵の表情を見せた。

 「はい、思いのほか時間がかかりましたが、ここまで来れば、もう三月もすれば新しい満昌寺が見られます。」と嬉しそうに答えた。

 それにしても、近頃の利景の衰えは、隠しおおせないものになっていた。本当に一年とは言えないのだ。体調が悪い日は寝込むことが多くなり、医師は恐らく腎虚であろうと診断していた。

 

 「仕方あるまいて。父上も、もう75歳だ。

 若い頃から戦場を駆け巡り、よくぞ、今日まで大御所様に御仕えしてきたものだ。

 父上には、もう駿府には戻らず、ここでゆっくりとお休みいただきたい、とお願いしている。」と国家老を務める養子の経景は言う。

 

 3月中頃、天海が上洛途上、明知城に立ちよるとの書状が届いた。

 「おお、兄者がお越しになるか。これは楽しみであるな。」と利景は微笑んだ。

 実は、伝蔵が密かに手配したのである。長年、利景に仕えてきた伝蔵は、「殿はもう長くは持たないのではないか。」と危惧していたのであった。

 

 

岐阜県 編

『岐阜県史蹟名勝天然記念物調査報告書』

第5回,岐阜県図書館協会,1971.

国立国会図書館デジタルコレクション 

https://dl.ndl.go.jp/pid/12592122 (参照 2024-12-09)