南光坊天海 (77)

 

 

 

 慶長18年(1613年)1月、忠隣は養っていた石川康通の娘山口重信に嫁がせた。しかし、手続きに瑕疵があり、将軍の裁可を受けていないとして、父・重政がけん責を受けた。重政は改易され、重信も父と共に武蔵国入間郡越生庄の龍穏寺に蟄居させられたのである。忠隣はこの裁定に大いに不満であった。それからは出仕も滞りがちになったという。

 

 こうした忠隣の行動家康は、冷たい目で見ていた。松平家は、代々家臣の謀反により窮地に陥ることが何度もあった。大久保党の興隆に家康は、危機感を抱いていたのである。

 

 「慶長十八年五月六日、此日大久保石見守長安が死せしにより、その属吏をして長安が所管の諸国賦税を会計せしめられしに、長安が数年の贓罪あらはれ、国々に令してその臟貨を査検せしめらる。よて長安が属吏等を彦坂九兵衛光正に命じ獄に下さる。」(「台徳院殿御實紀」)

 

 長安が自らの支配地に赴くときには、必ず美女20名、猿楽30名を引き連れていた。また遠路を行くときには、さらに上郎70~80人を加え、総勢250名を超える行列であった。行く先々で大宴会を重ね、近隣の人々は大いに迷惑したという。それにしても、この蓄財は何処から生み出されるのであろうか。正信はこの長安の豪勢な生活を疑った。

 

 主人である家康吝嗇家で知られ、無駄な出費を何より嫌ったのである。当然、家康正信は、長安には表に出せない隠財があるに違いないと睨んでいた。そして、この頃になると鉱山の金銀産出量も減少の一途であった。二人は長安に鉄槌を下す時期を探っていたのである。

 

 ところが、慶長17年(1612年)7月、長安は駿府で病に伏した。病名は中風である。家康はすぐに「烏犀圓」を処方し送った。

 そして、慶長18年(1613年)4月29日、長安は息を引き取ったのである。享年69歳であったという。

 

 長安は「遺骸は金棺に納め、甲斐の国に送り盛大な葬儀を執り行うように。」と遺言した。この話を聞いた家康は、不快感をあらわにし、「遺言を実行することは罷りならん。」と厳命した。

 

 大久保邸には、生前世話になった諸侯の使者が、弔問に訪れた。しかし家康は、突然葬儀の中止を命じたのである。

 「長安の生前の私曲が発覚した。不正を糺す。」として駿府は厳戒態勢に置かれたのであった。

 

 5月6日、家康の命を受けた島田直時甲斐に赴いた。会計の不正は次々暴かれ、不正蓄財は金で70万両、銀に至っては、はかり知れなかったという。

 5月18日、長安の嫡子・藤十郎、次男・外記、三男・青山権之助、四男・運十郎、五男・内膳、六男・右京ら7人の男子は各家にお預けになった。

 5月19日、家臣・手代にも類が及び、諸大名にお預けとなった。

 6月11日には、板倉重昌により諸国の帳簿が改められ、不正に関係したものが捕らえられた。

 

 「懸川、横須賀両所ニ有之藤十郎幷外記、今日殺害、其外之子共、今日ヨリ被相触、何も生害、石見下手代共、今日ヨリ彦九兵衛在府、所ヘ被集寄。」(「当代記」)

 

 長安の7人の男子は全員切腹となった。そのほか手代彦坂光正の配下に置かれた。これにより大久保長安家は断絶したのである。

 しかし、大久保長安事件はこれだけでは終わらなかった。

 

 

日本文化の会 編集『日本を創った人びと』16,

平凡社,1978.7.

国立国会図書館デジタルコレクション

 https://dl.ndl.go.jp/pid/12255294 (参照 2024-11-26)