南光坊天海 (81)
幸長は、若い頃から秀吉に仕え、15歳の時、小田原征伐で初陣を飾り、その戦功を秀吉に激賞された。
以降、文禄の役で朝鮮に渡り、清正隊と各地を転戦した。この後、秀吉は浅野家に甲斐国22万5千石を与えたが、長政に5万5千石、幸長に16万石であったという。幸長は慶長の役でも渡海し、蔚山城で戦っている。
秀吉の死後、七将事件には「武断派」として参加し、三成など文治派と激しく対立したのである。そのため、関ケ原の戦いでは家康に従っている。
家康と秀頼の二条城会見では警護役を務めた。父・長政が亡くなると、その遺領は弟・長重が継いだ。
「子なかりしかば封除かるべきを、殊恵にて弟右兵衛左幸晟つがしめらる。」(「台徳院殿御實紀」)
慶長18年(1613年)8月25日、「当代記」によると「唐瘡煩い、もってのほか」とあるから、重度の梅毒であったようだ。まだ38歳であったという。幸長には男子がいなかったため、本来無嗣断絶になるところを、浅野家の功績を鑑み、紀伊和歌山37万石は弟の浅野長晟が継いだ。
「これで、なんだかんだ言って真田昌幸、加藤清正、池田輝政、浅野幸長が続けて亡くなったわけか。」と家康が言うと、
「あとは福島正則でございますな。」と正信が答えた。
「あれは殺しても死なんだろう。」と家康は笑う。
「尾張大納言様との御婚姻はどうなされますか。」
「そのまま、春姫殿(幸長の娘)をお迎えするのがいいであろう。浅野家との友好は維持したい。」と家康は指示した。
「慶長十八年八月廿六日、仙波喜多院に関東天台宗諸寺の法制を下さる。その文にいふ。
本寺の旨を請ずして、末寺に住職すること停禁たるべし。
戒﨟をとげず非器の輩所化に附すべからず。尤斟酌すべし。
然といへ共昔よりの法談所は時宜に従ふべし。
諸末寺等本寺の命に背べからず。
本寺の衆議を歴ずして、山門より直に證状を受べからず。
一寺に於て追放するものを、他寺にて用ゆべからず。
もし山門おして許容ありとも関東にては叡山の下知を受べからず。
所化の徒一列して訴訟をこのみ、あるいは連署して事を企るの類、その咎尤かろからず。
制禁すべし。
所化法談所二期の経囘を欠べからず。
一山の学頭別当ならびに衆徒意に任するやからは、本寺に於いて速に裁許をとぐべし。
すべて今年二月廿八日先判の旨彌守るべしとなり。」(「台徳院殿御實紀」)
家康は関東天台宗の諸寺に法を布いた。
① 本寺の許可なく住職になってはいけない。
② 僧としての修行を十分積んでいないものは住職に就けるてはいけない。
これを最も斟酌すること。
③ とはいえ、昔からの法談所は時宜に応じてよい。
④ 末寺は本寺の命令に逆らってはならない。
⑤ 本寺の衆議を経ずして比叡山に證状を受けてはならない。
⑥ 寺から追放された者は、他の寺でも用いてはならない。
⑦ かりに比叡山から許可が下りても、関東ではその下知は無効である。
⑧ 修行僧が集団で訴訟を起こす、あるいは連署で謀反を企てることは厳重に禁じる。
修行僧の警戒を怠ってはならない。
⑨ 学頭・別当・衆徒(実務を司る僧侶)に任ずる者は速やかに本寺の裁可を受けること。
関東天台宗における喜多院・天海の覇権が確立したのである。
浅野長晟
