南光坊天海 (74)
「慶長十八年二月十八日、天台座主正学院僧正、薬樹院、五智院、禅行坊、禅定院、多武峰竹林坊、武州川越仙波南光坊僧正、仙波中院、浅草安養院、観音院、江戸神田立法寺、上野千妙院僧正、其外卅人、事利竪横之論議―――相入之手立、何れも面々胸中盡すと云々。
廿三日、自叡山天台宗五六輩依参府。今日三首病人論議在之。一字不説之論議、論議終而賜饗云々。
廿八日、叡山正学院僧正、仙波南光坊僧正、上野国くろねの千妙院僧正賜饗、三人僧正(三方膳)御施物銀十枚被物二領宛、中老僧衆銀五枚被物二領賜之、若輩僧青銅三百匹、被物一宛賜之云々。
三月四日、天台論議、講師薬樹院、五智院、覚林坊三人召し、四十人爲合手問答、ほうしんを翻て成仏歟、即身成仏之論議、論議終而賜饗云々。」(「駿府記」)
慶長18年(1613年)2月18日、家康は駿府において、大掛かりな天台宗相論を催した。集められた僧は当代を代表する名僧ばかり40名ほどである。家康はその論議を飽きることなく聞いていた。
23日には、比叡山からさらに5、6人の僧が駿府にやってきて相論し、最後は饗応を受けた。
28日、家康は、喜多院南光坊天海、叡山正学院僧正豪海、千妙院僧正亮諶の三僧正を饗応し、銀十枚などを与え、その他の僧侶にも褒美を出した。
この日、幕府は関東天台宗法度、常陸千妙院法度、武蔵中道院法度を定めたのである。この相論が、ただの宗教論争ではないことが分かるであろう。
天海ら三僧正は、将軍・秀忠のお礼のため、江戸に向かって出立した。
3月に入っても天台宗相論は続き、薬樹院久運、五智院偆海、覚林院の三人が講師として招かれている。
3月5日、三ノ丸において盛大な能・猿楽が催された。この様子を家康、日野唯心、山名禅高、藤堂高虎、天台宗の僧侶たちが見物した。残念ながら、利景らの出番はなかったようである。
「 関東天台宗法度
一、不伺本寺恣不可住持事
一、非器之輩不可附所化但於前々法談所者用否隨時宜事
一、爲末寺不可違背本寺之下知事
一、不請関東本寺之儀徒山門直不可取證文事
一、於関東追放之仁不可介抱若又於山門押而有許容者、於関東不可請山門之知事
一、所化衆法談所経歴不可闕二季事
一、一山之学頭別当幷衆徒、役者有依怙者、於本寺可有其沙汰事
右堅可守此旨者也
慶長十八年二月廿八日 (家康花押)
喜多院」(「関東天台法度」)
家康は喜多院を関東天台宗の総本山と定め、山号を「東叡山」に改めさせた。本来の天台宗総本山である比叡山延暦寺(山門)は朝廷に近かったため、関東天台宗を独立させ、すべてを天海の管轄下に置いたのである。喜多院には本山として、強い権限が与えられ、末寺をしっかりと管理できる体制を構築したのであった。
天海は山門においても探題として、復興に尽力したため、喜多院は延暦寺を凌ぐ権威を持つに至ったのである。
また、家康は、喜多院に広大な寺領を与え、寺院の大改修を行った。川越に突如として巨大寺院が誕生したのである。
かくして、天海は天台宗の第一人者として君臨することになった。
喜多院
