これまでの話 ⑤
次に「明智遠山氏」についても考えたい。
土岐明智氏は美濃源氏として有名であるが、遠山氏は加藤流藤原氏である。つまり、源氏と藤原氏で全く別系統なのである。そのため多くの識者は、「同じ明智でも別系統なので混同しないように。」と注意喚起し、それでお終いなのである。いや、もう少し考えようよ。
「明智」の語源は「開け地」、即ち「開けた土地」あるいは「開拓した土地」という意味だという。だが、全国的にはあまり一般的な地名ではない。この珍しい地名が美濃の近隣二か所にたまたま存在した、などという事があり得るであろうか。おそらく「明智遠山氏」の「明智」は「土岐明智氏」に関係があると考えたほうが自然であろう。
「恵那叢書」によると、もともと土岐明智氏の城を譲り受けたため「明智遠山氏」を名乗ったというのである。例えば土岐明智の城に入婿で遠山氏が入り、平和的に遠山家に譲渡されたのかもしれない。
また「明智年譜」によると明智遠山氏の家門は「丸に二つ引」であり、これは遠山景房が足利尊氏から地頭職と共に下されたものだと言われる。しかし代紋は「丸に桔梗紋」であり、幕や旗の代紋が「丸に六本格子」であったというのである。
「丸に桔梗紋」は明らかに「土岐明智氏」由来の家紋である。どうも、土岐明智家と明智遠山家には深い関係があるようだ。
光秀が信長の家臣として活躍し始めると、遠山景行も妻木広忠も織田家に臣従するようになる。
広忠は煕子の妹「ツマキ殿」を人質として織田家に差し出すのである。ツマキ殿は信長のお気に入りとなり、広忠は光秀の与力大名として従軍することになる。
一方、景行は、遠山宗家である岩村遠山氏が織田・武田両属で曖昧な立場であったため、織田方の実質的リーダーとして、東濃をまとめていたのであった。
元亀元年(1570年)11月、武田家重臣・秋山虎繁は3千騎を率いて、奥三河に侵攻した。景行は東美濃・奥三河連合軍5千人の総大将として、これを迎え撃ったのである。(上村合戦)
景行方には遠山友勝(苗木)、遠山友忠(飯羽間)、遠山景男(串原)、遠山某(阿寺)、吉村源蔵(千旦林)、小里内記(小里)、平井光行(高山)そして徳川方には山家三方衆、三河衆などが付いた。ところが、三河三方衆2500人は密かに武田方と内通していて、傍観するのみで参戦しなかったのである。
秋山虎繁は巧みな用兵で、寄集めの遠山軍を翻弄し壊滅させた。景行は数人で血路を開くと、漆原の山中で自刃したのである。敗走の中、景行は喉が渇き地面に槍を突きさすと、そこから清水が湧き出たという。このためここは「一杯清水」と呼ばれる湧水痕がある。その傍らには、「遠山塚」が建てられたという。
景行は決戦を前に、信長に援軍を依頼していた。そこで信長はすぐに「土地の案内人」である光秀に援軍を命じたのである。ところが、光秀は「滋賀の陣」の心労のため、病床にあった。止むを得ず、次将・明智光廉(三宅長閑斎)に出陣を命じた。
長閑斎は小田子に陣を張る秋山軍に伏兵を放ち、鉄砲と火攻めで攻め立てた。明智軍は緒戦に敗れた秋山軍を執拗に追いまわしたが、虎繁は悠々と信濃に引き返したのである。(小田子合戦)
この戦いで明智遠山家は当主・景行、嫡男・景玄を失い、壊滅的な打撃を受けたのであった。
秋山虎繁
