南光坊天海 (110)
「是日(13日)、大坂槇島玄蕃等ヲシテ、堺ヲ取ラシム。」(「大坂御陣覚書」)
南和泉の堺の港には、政所が置かれ、関東から派遣された芝山小兵衛が港の警護を行っていた。
大坂方から、堺奪還を命じられた赤座内膳・槇島玄蕃父子は、兵を率いて港に向ったため、驚いた小兵衛は堺を脱出して、高野山に逃げた。
10月14日、片桐且元は、芝山に加勢しようと兵300人をつけ牧次右衛門、十河久兵衛、多羅尾半左衛門らを堺に派遣した。
且元の軍は、柴山一派の残党狩を行っていた槇島らと遭遇戦となり、宗薫の家に立て籠もったが、敗れた。多羅尾・牧は敗死し、今井宗薫は生け捕りとなったのである。
15日、堺を奪い勢いに乗る大坂方は、今度は且元が立て籠もる茨木城を落そうとした。板倉勝重は丹波の兵を集めると、いち早く茨木城に援軍を出した。これを見て大坂方は大規模な出兵を控えたのである。
「是日(20日)将軍秀忠、伊達政宗を以テ先鋒トシ、江戸ヲ発セシム。」(「大坂御陣覚書」)
10月20日、秀忠軍の先鋒として、伊達政宗が江戸を発った。秀忠は家康に使者(渡辺半四郎・石川八左衛門)を送り、幕府軍(秀忠軍)が到着するまでは、開戦を控えて欲しいとお願いしている。ここに関ケ原戦役の汚名を雪がんとする秀忠の焦りが伺える。
23日、秀忠は少将・忠輝を江戸留守居とし、最上家親・鳥居忠政に補佐を命じた。そして、自ら6万人の大軍を率いて西上を開始したのである。
「慶長十九年十月、大権現御入洛。高虎を召て又軍政をしめしていわく、住吉を前にして可軍構也。時に高虎畏れて曰、敵之備えに可随、兼て難定、仍叶賢慮。」(「藤堂高虎記」)
23日、二条城の家康の元に高虎が訪れた。高虎と会うのは8日に先鋒として駿府を出陣して以来である。
「大御所様のご指示のとおり、続々と参集しております。現在精緻な地図を作らせております。」と高虎は真顔で報告すると、「どうだ、いっそこのまま、住吉まで押し出してはどうか。」と上機嫌の家康は言いだす。
高虎はムムと唸ると、少し難しい顔で言った。
「いえ、ここはまず相手の出方を見極めましょう。」
「そうか。」と家康はつまらなそうに言った。
『天僧正は御不在か。どうにもこの度の大御所様は楽観し過ぎではあるまいか。そんなに簡単な戦にはならないと思うが…。』と高虎は先行きを懸念した。
家康は、片桐且元と藤堂高虎を先鋒と定め、二人に大坂城の防御を詳細に調べるように命じたのである。
24日、勅使武家伝奏・権大納言広橋兼勝、三条西實條が二条城に家康を訪ね、長旅を慰労したという。またこの日、先行して上洛していた崇伝と道春に命じ、五山から各々10名の僧を集め、古記録の謄写をさせている。
26日、高虎は大和衆と共に国分に進出、更に堺まで兵を進めた。また南下する松平忠明・本多忠政らは、飯森山・若江と進んだのである。
この日、織田常眞が二条城に赴き、家康から所領の約束を取り付けている。
大坂方は河内国出口村の堤を決壊させた。これによって枚方方面に向かう道は泥濘となり、軍道として使用できなくなっていた。
家康は岩村城主・松平乗寿と稲葉正成ら美濃衆に堤の修復を命じていた。さらに広島城主・福島正則の子息・忠勝にも修復を命じたのであった。
松平乗寿
