南光坊天海 (158)
「二十九日、浅野長晟ノ先鋒亀田大隅・上田宗古等兵ヲ部署シ、大坂ノ先鋒塙直之・岡部大学ト大ニ樫井ニ戦ヒテ之ヲ破リ、直之等を獲タリ。」(「大阪編年史」)
29日、夜が明けようとする頃、大坂方の先鋒が貝塚で朝食をとった。その後、佐野市場に向けて則綱が先発し、直之がそれに続いたのである。ところが佐野市場に到着すると、既に浅野軍は撤兵した後であった。
直之は、このまま行軍することに危うさを感じ、一旦進軍を止め、少人数で見晴らしのいいところまで進んだ。すると則綱は既に蟻通しの近くまで進軍していたのである。直之はこれに怒り、安松の北に駐軍させ、後続を待たせた。
高綱は明るくなるのを待って、安松市街に火をかけた。蟻通しに向けて撤退すると、敵の斥候を見掛けたので、堤下で待ち伏せすることにした。
斥候の知らせを聞いた則綱・直之はすぐに追撃したが、待ち伏せをしていた高綱は、敵兵を十分引き付けると鉄砲50丁ばかりで一斉に銃撃した。その後も銃撃を繰り返しつつ2町ほど退却したのである。
直之等は鉄砲を恐れることなく、浅野軍に突撃した。大坂方の追撃は急であり、ついに互いに刀鎗を振るう白兵戦となった。
則綱は上田宗箇隊と争い深手を負った。直之は、多胡助左衛門の放った矢にあたり、馬から真っ逆さまに転げ落ちた。落下した直之は、多胡を突き飛ばすが、八木新左衛門が槍をつけたので、遂に討ち取られた。直之の僚友・淡輪重政も力尽きて戦死した。両将を失った大坂先鋒は、安松まで退却したのである。
一方、治房は、和歌山の土豪の蜂起を待ち、南北から挟撃するつもりであった。そこに重政の兵が戻り、大坂方先鋒が壊滅したことを知らせた。驚いた治房は救援のため樫井に走ったのである。
長晟は王子村に陣を布いていたが、大坂方先鋒を破った高綱・宗箇が退却して来ると、その労をねぎらった。
植村志摩守は「この度の合戦の勝利は、誠にめでたきことではございますが、これは敵の抜け駆けによる不慮の勝利にございます。一揆の扇動や後陣の大敵を思いまするに、ここは一旦和歌山に退くがよろしいかと存じます。」と長晟に進言したのである。
浅野軍には、紀州有田郡名草あたりで一揆が蜂起し、大坂方と呼応して、和歌山城を攻めるとの伝聞が伝わっていた。
長晟は池田忠雄が吹飯に着船したことを聞き、そこに使いを派遣すると、和歌山に帰還したのである。
治房が樫井に到着すると、浅野軍は既に撤退した後で、死体ばかりが転がっていた。治房は直之の遺骸を見つけると手厚く火葬にし、大坂城に帰還したのである。
岸和田城の小出吉英は、大坂城兵が退却するのを見て追撃し、数十の首級を上げた。
4月晦日、長晟の使者、關市兵衛、寺川左馬助が、二条城にはいり、樫井の合戦について報告をした。
家康はこの戦勝を大いに喜び、使者に馬・黄金を下された。長晟自身にも感状を与え、亀田高綱、上田宗箇、多胡助左衛門の軍功に褒詞を伝えさせたのである。
奮戦し、自らも傷ついた岡部則綱であったが、生きて大坂城に戻ると、「塙団右衛門を見殺しにした。」と讒言が浴びせられた。これを恥じて、自決を決意するも、毛利勝永に諭されて、思いとどまるのであった。
塙直之
