南光坊天海 (151)
「十六日、家康、伊勢亀山ニ至ル、所司代板倉勝重、書ヲ家康ニ呈シ、大坂方ノ金銀ヲ浪士ニ分配シ、武備ヲ整フルノ状ヲ報ズ。」(「史料綜覧」)
16日、家康が伊勢亀山に入ると、勝重から書状が届き、大坂方が金銀をばら撒き、牢人を集めているとの報告があった。さらに尾張候・義直が名古屋城を出立し、桑名に到着している。
17日、家康が、近江国水口に到着すると、秀忠からの使者・成瀬正武がやって来た。
「御所様は23~24日頃までには入京いたしますので、それまでは開戦されませぬよう、お願い申し上げます。」
さらに藤堂高虎にも書状で、同様の内容を伝え、家康にお願いするよう請うている。関ケ原の遅延が、秀忠にどれほどのダメージを与えたのかが、よく分かる話である。
関東勢は続々上方を目指して進軍している。義直は近江国土山に、頼宣は同国永原に入った。松平忠直(北ノ庄城)は、近江国坂本から山城国西岡向明神に布陣した。
家康は、浅野長晟(和歌山城主)、池田利隆(姫路城主)、池田忠雄(由良城主)、加藤明成(松山城)、生駒正俊(高松城主)、山内忠義(高知城主)に出陣を命じた。
「(十八日)家康、京都ニ著シ、二条城ニ入ル、子尾張名古屋城主徳川義利(義直)・駿河ノ同頼将(頼宣)又、入京ス。」(「同上」)
18日、家康が二条城に入ると、続けて義直・頼宣が続けて入京したのである。
19日になると、家康は、家臣の大野治純(治長の弟)を大坂城に派遣して、治長を見舞っている。
「家康、豊前小倉城主細川忠興ニ出陣ヲ命ズ。尋デ、忠興及び其子忠利、各、封地ヲ発ス。」(「同上」)
家康は、細川忠興(小倉城主)、島津家久(鹿児島城主)、鍋島勝茂(佐賀城主)に出陣を命じた。
また、江戸から黒田長政(福岡城主)、加藤嘉明(松山城主)が江戸より上洛して、明日には伊達政宗が京都に到着することを告げた。
「二十一日(秀忠が)伏見城につかせ給ふ。御所今度はことさら道をいそがせ給ひ、小勢にて先勢を越、もみにもんで早く上着したまひしを、大御所聞召、左様に奥州大名共を後にし、軽々しき御挙動以の外なりと御気色損じ、本多正純をもてそのもね仰進らせられ。」(「台徳院殿御実紀」)
21日、秀忠は、またしても先を急ぎ、奥州大名を追い越して、小勢で伏見に現れた。これを聞いて、家康は、すっかり御機嫌を悪くして「先手の奥州勢を置き去りにして、上洛するなど、軽々しい挙動をすべきではない。」といて正純を派遣して注意を促すと、2~3日、対面を許さないと告げた。もっとも、秀忠は22日には二条城に上り、無事家康に対面している。
そこで家康は、秀忠、高虎、土井利勝、本多正信・正純等を召して、
「28日に大坂に向けて出陣する。」と明言した。
「お待ちくだされませ。まだ、加賀、越前、奥羽の軍勢が到着しておりません。今暫くのご辛抱をお願いいたします。」と高虎が押し留めた。
しかし家康は、「この度、大坂城は堀を埋められ、かつての要害は失われた。よって籠城しての防戦はない。必ず、城外に討って出て一戦において、雌雄を決するであろう。我らは、片端から打ち破って、追い崩していくほかない。」と断言したのであった。
二木謙一 著『大坂の陣 : 証言・史上最大の攻防戦』,
中央公論社,1983.11.
国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/12281302 (参照 2025-05-04)
