南光坊天海 (147)
「十六日京職板倉伊賀守勝重より、大坂ひそかに京都に出勢し、大内、仙院以下を焼払ふ風説頻なるゆへ、京中上下大に騒動するよし注進す。依て井伊掃部頭直孝、藤堂和泉枚守高虎、本多美濃守忠政、松平下総守忠明、京の東寺邊へ陣取、大内を守護し、直孝、高虎は淀、大渡へ人数を出し、往来を査検すべしと令し下さる。」(「台徳院殿御實紀」)
3月16日、京都所司代・板倉勝重が畿内の不穏な動きを告げている。
家康は、井伊直孝、藤堂高虎、本多忠政、松平忠明に畿内の治安維持と警戒を命じた。関東勢が引き上げたのちも、家康が信任する4人の武将が、引き続き畿内を鎮撫していることが分かる。
「三月十七日、松平陸奥守 従京都着府。則今日 御目見、献御太刀・御馬。召御前江 御盃賜之。去年冬陣以後、京都滞留云々。」(「駿府政事録」)
翌日、京都から帰国途上の伊達政宗が、駿府やって来た。太刀や馬を献じて、盃を給わったという。
「先の御陣では、上杉家、佐竹家が、大層家名を高めました。次の機会には、必ずや当家も感状をいただく働きをしたいと存じます。」という。
機を見るに敏な政宗は、近々「次がある」ことを察していたようである。
その後、織田常信もやって来た。この男に家康は、何度か裏切られているが、どうにも憎めないのである。腐れ縁というものかもしれない。
この度も、大坂方に担ぎ出されそうになると、いち早く家康に内通し、城を抜け出しているのだ。家康は、褒美として京都にある大久保長安の旧屋敷を与えた。
「蜂須賀家政 元和元年、大坂より江戸に至りて、台徳院殿(秀忠)還御の折節、蓬菴(家政)御前にめし出され、其上呉服幷銀子三千両拝領いたし帰国す。」(「寛永諸家系図伝」)
さて、江戸で自ら人質となっていた家政(蓬菴)は、帰国した秀忠に呼び出された。秀忠は鎮至の働きを称え、父親である家政にも呉服と銀子3千両を与えたのである。家政は、帰国の途上、駿府に立ち寄り、家康に謁見すると阿波に帰っていった。
「三月廿二日、石火矢籠花水邊而鋳給。」(「駿府政事録」)
19日、林道春信勝(羅山)と崇伝が駿府に帰参し、古書謄写が成功したことを伝えた。21日、家康は、さらに両名に「群書治要」「大蔵一覧集」を200部ばかり印刷するように命じたのである。
22日、家康は、駿府において「石火矢」(大筒)の鋳造を命じた。すでに夏の陣は始まっていた。
「廿五日、去年九月より、伊勢にて風流踊と名付諸人風流の衣装をかざり、市街村里を風哥す。其風十一月ごろより畿内近国に及びしが、今日駿府にて土人此踊をなす。やがて日をへず、奥羽まで風習大に盛んになる。」(「台徳院殿御實紀」)
家康が京都で見た「伊勢踊り」がついに駿府にまで来た。どうやら駿府では「風流踊」とその名を変えたらしい。この風流踊りはすぐに全国に広がり、奥羽両国まで盛んになったという。家康は、この踊りについて調べさせた。
起源はやはり伊勢のようで、巫女や帰化唐人などが、「太神宮飛行し給ふ。」といって花火などを飛ばしたことが始まりという。これに派手な衣装や歌、太鼓、鉦などと結びつき、瞬く間に大流行となったようだ。これを危険視した家康は、「厳制」するよう命じた。
高木文 著『好書雑載』,高木文,昭和8.
国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/1190232 (参照 2025-04-29)
