ボヤジャントの呟き。 -3ページ目

ボヤジャントの呟き。

過去に行った廃墟探索、今後行う廃墟探索を振り返りつつ、政治経済の話題、時事問題、雑談や長年の趣味であるバイクやギターなどについて雑談して行くのです。

取材日時 2008年 9月12日

コメント・かの有名な「軍艦島」と「池島」と「崎戸炭鉱住宅(RIP)」を抱える日本でも最も重要な廃墟を抱える自治体として名を馳せる(?)長崎県。
じつは絶対に突入できない廃墟として地元探索家だけでなく、全国の廃墟探索家の羨望の的であった廃墟がもう一つある。
それが旧長崎刑務所だった。何故に絶対中に入れない廃墟だったかというとここの物件が現役当時はなんだったのかを考えれば簡単に答えが出るはずだ。
刑務所は簡単に脱走出来ないように出来ている訳だから、その逆も不可能なわけだ。
しかし、俺が取り壊し後の現地に赴いて思った事は「塀さえ乗り越える手立てさえあれば、なんとかなったかも」という印象だった。
つまりは、周囲を民家に囲まれているものの、時間帯さえ考えて正門の凹凸を利用してよじ登れば、意外と簡単に敷地内に入れたはずだった。
一旦中に入ってしまえば、いくら刑務所とは言ってもすでに無人の放棄された廃墟である、大きな音や光を出さなければむしろ中途半端なセキュリティーに守られた廃墟よりはずっと安全に探索する事が出来たと思う。
しかし、残念なのは去年の夏に解体されてしまったという事だ。正直言うとこの長期遠征に出かける寸前に、ネットで軍艦島と長崎県に関する情報を集めていた時にたまたま見つけたのがこの旧長崎刑務所だったのだ。
ということは、俺が遠征に出かける時には既に刑務所としての原形は無くなっており、今から急いで現地に飛んでいったとしても、当時の姿を偲ぶ事は叶わない事は分かっていた。
それでも、先日の崎戸での脱力その更に前の志免での硬直するような風景で若干のトラウマになっていただけに、今回の現地訪問は既に抵抗力が出来上がっていたのでそれほどのショックは受けなかったが、やはり「逃がした魚は大きかった・・・・・」そんな気持ちを抱きながらの写真撮影となった。
とりあえず、廃墟物件番号を割り当てたのは崎戸ほど絶望的な更地になっていたわけでもなかったので、とりあえず残された正門と正面の尖塔のみを残してくれた事に対する敬意を表したかったのが理由だ。

     
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取材日時 2008年 9月11日

コメント・九州北部ではもはや説明不要の超有名物件である。九州にはこういった「遠方の廃墟好きでも名前くらいなら知っている」という戦争遺跡や産業遺跡を始めとした廃墟が多数ある。特に、太平洋戦争前後の日本経済の発展を下支えしてきた北九州地方は特にこの残存率が顕著である。
この伊万里造船所も創立当時は貨物船を作っていたが、戦争に突入すると軍需工場としての役割を受け、人間魚雷や海防艦を製造していたらしい。
ここ以外にもいくつかの産業遺跡があるがそのどれもが何らかの形で戦争と関わりをもち、短期的でいながらも非常に急進的な繁栄と成長を遂げ、終戦と同時に急速に規模を収縮していったものが多い。
終戦と共に日本は高度経済成長時代を迎えたのだが、戦争による特需と経済発展の需要とはなにかが違ったのだろうか。
戦後は船舶の建造、修理に加え。鉄道貨車、客車なども手がけたが後に経営陣内のクーデターによって経営状態が悪化し、破産宣告を受けて閉鎖してしまった。
実際に突入して思ったのだが、この物件内部には遺物と呼ばれるものは全く無い。言うなれば完全なる遺構である。
しかし建物の規模や造形、全体的なデザインはかなりモダンで、ギリシャの神殿をもイメージさせる所も多々あった。
ただ、いかんせんこの当時の季節を考えれば分かると思うが、とにかく蚊が多い
道路からすぐの建物の中を歩いている時はほとんど飛んで来なかったのに、いざドックのある海辺へと移動を始めると、まさに猛襲と呼ぶにふさわしい数の蚊が飛んで来た。こちらは虫除けスプレーと肌を露出しない完全装備で挑んでいるが、それでも二酸化炭素を感じ取ったヤツらは久しぶりの大物とあってか色めきたってたかって来るのが分かるほどだ。
俺は払っても払っても寄ってくる無数の蚊を手で払いながら写真撮影を続け、海辺へと移動していったのだが、その姿を誰かが見たら「こいつは全身から煙をたなびかせながら歩いているのか?」と思ったに違いない。

造船所の探索を終え、移動しようと思っていた矢先、伊万里造船所のすぐ近くの山の上に、RC造りの建造物を発見した。
その物件にアプローチを試みたが、生い茂る藪と伸びきった樹木でなかなかルートが見つからず、手をこまねいていたところ、すぐ近くの民家から出てきたオバサンに、山の上の建造物の素性を聞いたところ、変電所であることが判明した。
車道まで進出した雑草を刈り取る為に炎天下の下で作業にいそしむオバサンに一言お礼と断りを入れて、変電所へのアプローチルートの草刈を済ませ、物件に突入した。
内部は長い事放置されたままのようで、いくつかの不法投棄されたゴミがある以外はこれといった遺物も無く、価値ある産業遺跡とは思えない印象だった。それは岡山の倉見発電所と同様で、RC造りの建物は解体するだけでも膨大な費用がかかるので、中身だけ撤去し外側は好きなようにしてくれといった感じで残されている。
しかもこちらの場合は周囲を樹木に囲まれてしまっている為に、伊万里造船所ばかりに注目が集まっているようで、こちらを廃墟として取り上げているサイトは結局予告物件が豊富な事で有名な「東日本戦跡調査団」のサイトにて予告として紹介されているだけに過ぎない。
確かに、ネットで公表するほどの価値が無い物件かもしれないが、予告物件ゼロを目指す当方としては、本邦初公開としてここにご紹介しようと思う。

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取材日時 2008年 9月10日

コメント・2008年超長期廃墟探索ローラー作戦もいよいよ最終ステージである「九州ラウンド」に突入した。
今回の物件はその記念すべき第一発目となる、しかも超有名物件の「志免炭鉱竪坑櫓」だ。
しかし、この物件を見ることは出来ても触れる事が出来ない、内部に入る事も出来ないし、今回は周囲を区画整理するための工事が大々的に展開されていて、さらに接近する事が不可能となっていた。
モチロンこれだけでは物足りないので、近所にある資料館に足を運び、志免炭鉱について色々と調べてみた(と言ってもタダ単にビデオ説明を見たり、展示物を写真に収めたりしているだけだったが)。
だが、結局は公に認められた産業遺産であって俺個人としては廃墟とは呼べない代物だったというのが結論。
そういうものは得てして詰まらない、見るものが無いからだ。ゆえに探索時間も一時間に満たない。
これを皮切りに九州ラウンドは目も当てられぬ惨敗が続く事になるのだが、廃墟残存率が日本の中でも北海道に次いで特に高かった九州に対するイメージが今回の探索ですいぶんと変わったと思う。

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取材日時 2008年 9月9日

コメント・俺が廃墟探索を志すようになったきっかけを与えてくれたいくつかの廃墟がある。摩耶館・軍艦島・足尾銅山・そしてのうが高原だった。
廃墟探索というサブカルチャーが一気に知名度を上げ始める頃、当時から運営していた古参の廃墟サイトはこの4つの物件を取り上げているだけで十分にアクセスを稼ぐ事が出来た。
いずれも廃墟好きなら知らない人は居ない超有名廃墟ばかりであり、そしてどれにも共通して言える事はどれもが現在も取り壊されずに現存しているという事だ。
のうが高原は、野貝原山山頂の磐座に巨大な建造物をおっ建てて、山一つ丸ごとレジャーランド化するという、まさにバブリーな発想の元で大々的に開発されたものの、時代のニーズに沿った物ではなく、見事なくらいに短命でその役目を終えた西日本でも屈指の大型保養施設廃墟である。
しかし、大型ダンプくらいの大きさの岩をそのまま取り入れた大浴場は、吹き抜け三階層の見事な造りで、そこから広島市内(厳密には廿日市市)を眼下に見下ろし、その先には瀬戸内海、四国を一望できるランドスケープは、数ある廃墟の中でもトップクラスのロケーションだとも言える。
正直言って、この大浴場以外の施設は平凡でどうでもいいような物ばかりだった。短命に終わって当たり前だとも思えるような各所の陳腐なデザイン、い今では保養施設=徹底したバリアフリーという図式が当たり前となったが、そういったものが全く無かったふた昔前の複雑怪奇で入り組んだ建物内を歩き回るのはかなりの体力を要した。こんなつくりでは高齢化社会を迎えている日本で商売をしても、集客を望むのはいささか無理があるともいえる。だから廃墟になったのだ。
今回は時間に余裕を持ち、摩耶館同様にじっくりと下調べをしておいたので、クルマを置く場所までは全く問題なく進む事が出来た。
ところが、物件近くのカートレース場前の広場にクルマを停めいざ登山を始めようとして居たところ、サーキットの奥にある工事現場(?)の関係者と鉢合わせすると言う事態に遭遇、平日早朝で山奥、しかも千葉ナンバーの見慣れないヤロウが一人でウロウロしていたらそれだけでも十分にアヤシイはず。レガシィワゴンから降りてきた二人組の男性は完全に俺を不審者として見ているようだった(実際に不審者なのだがwww)。
俺はすかさずその場で「野貝原山に登る為に来た」と話をし、快く駐車場にクルマを停めさせてもらう許可を得た。
そして、装備を固め山道を登り始めるとすぐにサーキットが見えてきたのだが、どうも活気が無い。確かに平日だし朝だし誰も居ないのは全く持って自然なのだが、廃墟っぽい臭いがするのだ。こんな山奥にカートレース場が有る事自体かなり不自然だし、トランポで登ってくるにはアクセスルートの整備がなっていない。(途中の林道は完全ダートで一車線、すれ違い不可)コースは舗装が荒れていて、これでまともにリジッドのカートが全開走行出来るのかと思えるようなコンディション。
その後は尾根に出た辺りで方向を見誤り30分ほど時間をロスすると言うアクシデントに見舞われるなどしたものの、山頂のテレビアンテナを目標に定めコンパスと携帯ナビを駆使して無事に外周道路に出る事が出来た。
その後は出発前に用意しておいたレポートを元に敷地内を探索し、昼前にはほぼ目的を達成、大浴場にて瀬戸内海を見下ろしながらの昼飯とし、一時間の昼寝をして山を降りた。
廃墟でランチを取り、昼寝が出来るという余裕。実はこの日はすぐ近くで物件周辺の山林にて伐採作業が行われていて、いつ作業員に見つかってもおかしくなかった状況だったので作業が停まる昼休み時間中は行動することが出来なかったのだ。
あと、取り壊しの噂が耐えない当該物件だが大浴場の一部はかなり手がつけられているものの全体的にはほぼ原形を留めており、マンション部分は内装まで完全に撤去されているが、もともと何も無かった所なので写真撮影にはそれほど困らないのではと思う。

のうが高原 その1      
 
のうが高原 その2      
       
   

 

のうが高原 その3      
 
のうが高原 その4      
     
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この夏やりたい3つのこと

1つめ:ジムが2ヶ月間休業していたお陰で体重が戻ってしまったので、増える前の体重に減らす。

2つめ:北海道ツーリングを今年も決行。

3つめ:北海道の廃炭鉱施設をドローンを飛ばして空撮する。

みんなの投稿を見るやりたいことを書く

取材日時 2008年 9月8日

コメント・まず単刀直入に感想を述べさせてもらうと、正直かなりがっかりした。
これがあの世界遺産なのかと思うと足を運んできた事のバカバカしさで落ち込みそうになったほどだ。
この程度の規模で登録が可能ならば、軍艦島や足尾銅山なども簡単に出来てしまうのではないかという程度の印象しかなかった。
とにかく、遺物が余りにも少ないのだ。あるのは遺構にもならないかつての精錬所跡や、銀山最大の目玉とされるがただの横穴としか思えない龍源寺間歩。
これのどこが世界遺産たる条件を満たしているのか。
歴史的価値を訪問者に感じさせたいと言うような意志が全く感じられない。
銀山の近くには無料で見学できる資料館も有るが、展示物はことごとく陳腐でただ並べてあるだけと言う物ばかり、これを金をとってまでして見せようと言うのだから、極端な言い方をすれば「ボッタクリ」と言われてもしょうがないだろう。
兎にも角にもこの銀山の為に一日の貴重な時間を費やしてしまった事を激しく後悔してしまった。


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取材日時 2007年 8月13日

コメント・やっと探索らしい探索が出来た最初の物件となった。
それまでは、外から見るだけの現役施設や、完全に施錠された廃墟(管理物件)ばかりの連続で、出だしから苦難の連続であったのだが
ここで、ようやく内部での探索を思う存分展開する事が出来た。
だが、残念な事に北海道の炭鉱全体に言える事は、閉山してからの時間がかなり経過しているという事、故に一部の炭鉱施設を除いて殆どの施設が取り壊し、または坑道入り口が恐ろしいまでの頑強なコンクリートで封鎖されており、一切の立ち入りが困難で有る事だった。
まだ、探索を始めたばかりではあるが、出発前に調べた限りでは、本州の廃鉱山のようなウェルカム状態はあまり期待しない方がよいのだろうと覚悟はしていた。
それだけに、残された僅かな建物の中に入れて、しかも遺物が少しでもあれば、それだけで大喜びしてしまう。
今回の真谷地はその期待に見事に答えてくれた最初の産業遺跡となった。

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取材日時 2008年 9月8日

コメント・数年前にロングツーリングで訪れた場所である。
その当時は年齢から言ってもあまりこの手の建築物や宗教的観念に対し全く興味を持っていなかった。
だが、実際に目の当たりにしたときの圧倒的な存在感や、実は縁結びの神様であったという事(当時から一人身で連れ合いが居なかった事も関係している)で関心を持つようになり、現在は交流を絶っているkerberos氏の寺社仏閣好きも後から影響したが、その当時は銀塩カメラしか持っていなかったのであまり枚数は撮らなかった。
それから行く数年の月日がたち、再び山陰地方に足を踏み入れた時には廃墟探索の目的とは違っても是非あの荘厳な雰囲気を味わいたいと思っていたのだ。
現在俺の手元には枚数を考えないでシャッターを押せる強力なデジタルカメラが二基ある、そう簡単に来られる所ではないから時間の許す限り画像に納めようと思った。
当日は月曜日の朝という極普通の平日である、当然人の出は少ない、しかし日本一由緒ある神社とあって、早朝から観光客や地元民が散策に訪れていた。
久しぶりに見る出雲大社は当たり前だが当時のままだった、しかし周辺には前回訪問時には無かった建物が幾つか増えており、多少の変化はあったみたいだ。
前回に比べても倍以上の時間を掛けて境内を巡ったと思う、やはり興味を持って廻るのとそう出ないのとでは視線のやり方も全く違う、敷地内にある一つ一つの建築物に近づいて、その由来についての能書きをきちんと読むし、写真を撮る時も様々な構図からカメラを構えてシャッターを押す。
廃墟は所詮負の遺産としてでしか見てもらう事は出きず、いつ取り壊されても構わないような扱いしか受ける事は出来ない、しかしおれが今まで見てきた全ての廃墟が束になっても叶わないほど古いにも関わらず、国宝として国挙げての手厚い保護を受けているこの建築物は、世紀を越え幾度の戦火や震災にも耐えて今日まで現状を保ってきた(一部の建物は火災で焼失しているが)。それゆえに廃墟には無いオーラは出ているものの、朽ち果てているところが無いのでおどろおどろしさと言うのは皆無である。当たり前だがどんなに古くても現役である限り建物というのは意外と頑丈に出来ているものなのだ。

       

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取材日時 2008年 9月7日

コメント・最初はこの鉱山に行く予定はなかった。
しかし、軍艦島が縁で知り合ったバイク乗りでもあり、廃墟好きでもあるK5さんが軍艦島帰りに立ち寄った話を聞き、俺はその名前を元にネットで調べてみたのだが、あまり既出している情報も少なく、内部の様子を詳しく公開している廃墟サイトが見つからなかったのも、ますます俺の探究心好奇心をくすぐる要因となった。
国道からさほど入らない辺りで、携帯が簡単に圏外になり、山道を分け入って行った先で道路は崩落の為に通行止めとなり、車を置いて歩く事20数分。
急峻な山道を登りきった先の山肌にへばりつくように建つ選鉱場が目に入った時は、中国地方に残された鉱山の意外な規模の大きさに驚かされた。
そして、建物内部に入ってみると更に感動。
神岡鉱山以来の保存状態だったのだ。全てが撤去されずに残されている、鉱員が休憩していた部屋などは時間が止まったままになっていたし、地下坑から噴出する地下水がとうとうと音を立てて流れ出す様は、人が居なくなってかなり経っている筈の選鉱場の中で生命感を感じさせた。
全く予想していなかった展開に、時のたつのを忘れて撮影に没頭、新しくしたカメラの性能にも助けられて3時間近く場内をウロウロしていた。
K5さんからこの工場の名前を聞かされていなかったら、ここもまた一生訪れる事は無かっただろう。落書きや放火、破壊が殆どされていないところを見ると由緒ある鉱山なのに、あまり知られていないのかもしれない。
とりあえず探索はしたわけだし、自力で見つけ出したのでサイトでは公開するが、あまり認知されても欲しくない気もしたりする。勝手なものだとは分かっているが。


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取材日時 2008年 9月5日

コメント・前述の「廃織物工場」に続いて発見した未既出物件である。
今回はあの津山三十人殺しの犯人であった都井睦雄の生まれ故郷である「倉見集落」へ向かう途中で偶然発見したものだ。
倉見側に沿って遡って行く県道を車で移動中、たまたま川向こうの藪の向こうに見えた周囲の民家群とは明らかに場違いな大型コンクリート建築物が目に止まり、その正体を確かめるべく、近くで草刈をしていた原住民にその事を尋ねたところ、発電所である事が判明した。
しかし、実際に現場に入り内部を調査してみたが、当時を偲ばせるような遺物は皆無で、その後ホテルに戻り携帯で色々と検索をしてみた所、上記の物件名が正式名称として確定したのである。
画像をご覧になって分かるとおり、外観はかなり期待が持てるような保存状態だったのだが、内部は完全に物置と化しており、発電所にあるような大掛かりな機械や、装置類は全く残されていなかった。
だから見所という物は無く、wktkしながら内部に入ってみたが、期待は脆くも崩れ去ったと言っていい。
それを引き換えにしても、あの田園風景の中に忽然と聳え立つRC構造の建築物は相当に異様な雰囲気を漂わせているのは確か。
見て損は無いと思う。簡単に見つかるしコンクリートの廃墟が好きな人なら、近所の人に声を掛けて近寄って見るくらいなら誰でも簡単に出来る。

       

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