ボヤジャントの呟き。 -4ページ目

ボヤジャントの呟き。

過去に行った廃墟探索、今後行う廃墟探索を振り返りつつ、政治経済の話題、時事問題、雑談や長年の趣味であるバイクやギターなどについて雑談して行くのです。

取材日時 2008年 9月7日

コメント・津山三十人殺しの事件の舞台となった貝尾集落へ移動中にたまたま偶然発見した廃墟である。
最初は建物の意匠や立地条件から見て「すわ学校廃墟か!?」と色めきたったが、内部に突入して調べているうちにどうやら別物と判明した。
確かに建物内部の造形はなんとなく田舎の学校にもよくあるような物なのだが、隣接する社員寮などの存在がそれを打ち消すには十分な材料となった。
ネットではどこにも紹介されていない完全未既出物件(ハイハイ自慢自慢www)。
やはり廃墟を開拓するには足で稼げとは良く言ったもので’(誰が?俺が)、後追いばかりの廃墟探索は安心感はある物の、探索のエネルギーに絶対必要な「高揚感」という物を求めるには無理がある。
やはり、「あ・・・あれもしかして廃墟じゃねぇのか?」とか「前から気になっていたんだけど、入ってみようか?」というきっかけから始まり、色々とネットで検索を掛けてみたが何も収穫が無く、手詰まりになる。結局は自分で突入してその物件の正体を確かめるしかなくなるわけだが、それが廃墟探索の原点でも有る。
何も情報が無く、完全な手ぶらで廃墟に突入するその時のドキドキ感こそが、廃墟探索というなかなか人に大きな声で言えない趣味が消滅することなく今でも連綿と続いている最大の原動力であると俺は思う。
だから、今回の廃織物工場に入る時はかなり緊張した。
純数で145件もの廃墟に飛び込んできたキャリアをもつ俺だが、未だに初めてしかも正体不明の廃墟を前にすると総毛立つ。これがたまらなくいいのだ。

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取材日時 2008年 9月6日

コメント・プチ軍艦島・・・いやプレ軍艦島という捉え方でこの島にやってきた。
残された廃墟(遺構)は某企業により独占的に管理されているが、突入は容易だ。
監視カメラがある訳でもなく、忍び返しの有刺鉄線がある訳でもない、正面には頑強な鉄の門が有るが、迂回すれば近くの山から簡単に敷地内に入れる。
もし合法的に中を見て廻るには、インターネット限定で申し込みを数日前に行い、完全予約制でガイド付きで限られた場所のみを案内してもらうと言うかなりの鬱陶しいものしか用意されていない。
モチロン俺はそんなものには一切関わらず、独自に探索を決行した。
とある小さな漁港から出る船に乗り、10分位で島に到着。直ぐに精錬所に向かい裏の山からサバゲーの如く物陰に隠れながら敷地内に侵入し、撮影を始めた。
撮影を始めて20分位たった辺りで、受け付けを済ませた一般観光客たちが精錬所敷地内に集結し始めた。
先頭をガイドが歩いて、周囲を指差しながら色々と説明をしている。彼らに見つかったら面倒なので、とにかく目撃されないようにソソクサと狙撃兵の如く低い姿勢で移動をしつつ、カメラを構えては撮影、三脚を立てては撮影を続けた。
結局最後は、遊歩道に置いておいた三脚から離れて建物の陰で撮影をしていた所を歩いてきたガイドに持っていかれ(忘れ物と思って持っていこうとしていたらしい)、それに気が付き取り返しに行ったところ「お客さんID持ってませんね?何処からお入りになったんですか?」と言われ「裏山から入った、普通に入れるよ」と落ち着いた調子で答え、三脚を返してもらい、ついでに正面ゲートを開けてくれた。うまいことに全ての区画の撮影が終わった後に見つかったので、俺にとってはなんの不足も無かった。
それ以前に、有人島なのに売店などが殆ど無く、これでよく生活していられるものだと思うほどに、観光客を迎えるインフラが整っていない。
静かな離島でのバカンスを楽しみにしたければ、犬島はお手軽に上陸できる場所では有るが、俺にとっては日差しから逃れる場所が無いシンドイだけの島だった。
そんな印象しかなかった。


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取材日時 2008年 9月5日

コメント・軍艦島の事についてmixiで日記に書いたところ、それを見てコメントを下さったK5さんというバイク乗りの方から頂いた情報を元に探索した。
自分はどちらかと言うと廃屋やラブホのようなジメジメした廃墟よりは、工場や鉱山といった大規模な廃墟が好みで、遠征に出かける時などは、小さな廃屋があっても立ち寄る事はないが、大規模物件があれば少々距離を走る事になっても、探索に費やす時間を惜しまない。
今、関西~中国地方の鉱山にも取り壊しの波が押し寄せているのは周知のとおり。
その中でも、有名な所では明延鉱山神子畑選鉱所がある。廃墟になってから特に大きな事故や事件が起きたわけでもないのに、2004年には伊豆の大仁金山のように遺構のみが山肌に残るだけになってしまった。ただでさえ大きな鉱山が少ない関西~中国地方だけにこの消滅は大きかった。
あとは、犬島や大久野島のようにガランドウの廃墟しかない。それ以外は上陸さえできない島があったり、廃鉱山があったとしてもすでに完全に土に帰ってしまっていて、その痕跡すら確認するのが困難な場所が殆どだ。
だから、自分は最初からこのエリアでの鉱山探索は予定に入れていなかった、ネットで調べる事すらもしていなかったのだ。
所が、軍艦島帰りのK5さんからこの鉱山の話を聞いた後にネットで調べてみると、けっこう面白そうな物件が幾つかある事が分かった。
このままマヤカンを終えて広島ののうが高原だけを見て九州入りするよりは、途中で出来るだけ探索をしていく方が長期探索らしくていいだろうという風に考えが変わり、急遽探索リストに組み入れたのだ。

グーグルマップの航空写真で場所を特定したものの、現地周辺は携帯ナビが圏外で使えず、結局ゲートボールに興じていたオバアチャンに場所を聞き出し目的地にたどり着いた。遺物はあまり残されていなかったが予想したよりは突入も容易く、一箇所確認は出来なかったが無数の蜂の羽音を耳にした位で、これといった危険箇所は無かったと思う。
にしても俺の体は相変わらずで、廃墟を前にして突入しようとするとトイレに行きたくなるのはどうにかならないものなのか。

結局すぐ近くを流れている小川の橋の上に座り込み川にめがけて爆弾を落としてから探索に取り掛かる事になった。(これが思いのほか爽快だった!)誰も来ないような所かと思ったが、探索中に1~2台の軽トラックが通過していった。

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取材日時 2008年 9月4日

コメント・取り壊しが進む関東地方に比べて、関西地方には有名且つ歴史的にも価値がある廃墟物件が数多くある。
しかし、近年はネットで紹介された廃墟に侵入し探索するだけならまだしも放火したり、破壊行為を行ったり、犯罪の温床になったりと穏やかではないニュースが急激に増え、たんなる心霊スポットや写真撮影の名所だけでは留まらなくなってきてしまったのも事実である。
実際に紀伊半島南部に群生していた有名大型廃墟に関しては、大掃除とも表現できる取り壊し事業が大規模に展開し、俺がいずれは突入しようと画策していた物件はほとんど姿を消してしまった。大阪府や京都府、滋賀県という近辺の廃墟にも取り壊しの波が押し寄せ、リバーサイド病院やR病院、橿原病院やマル病院など、有名病院廃墟だけでもこれらは全て消滅している。皆殺しの館や醍醐幼稚園、ユネスコ会館なども全て姿を消した。
超有名物件と呼ばれる関西地方の廃墟は関東地方にも迫る勢いで次々と灰塵に帰していったのである。
その中で、唯一と言ってもいいほどに原形を留め、当時の雰囲気をかろうじて残している数少ない廃墟の中でも、正にビッグネームと呼んではばからないものが今回の「摩耶観光ホテル」だろう。
この物件に関する説明はし尽くされているので、今更改めて行う必要は無いだろう。手抜きとも言われても仕方が無いが、誰しもが知っている情報をここで列記したところで誰もそれに目を通す人は居ないのはやる前から分かりきっているからだ。
前日は近畿地方を通過する低気圧の影響で悪天候に見舞われ、止む無く中止。その日は急遽メニューを変更し「吉祥園」と「山の牧場」のセット探索をその日に当てた。
急遽変更で、そのなかでも予定には無かった「吉祥園」は予想外に大規模だったし、「山の牧場」は実在したしでかなり収穫はあったので、その点に関しては嬉しい誤算だったとおもう。
そして、一日待った本日早朝5時。ホテルを出てまだ薄暗い神戸の町を車で走り抜け30分ほどで登山口に到着。
昨日のうちに下見をしておいたので、現地についてから装備を固めアタックを開始するまでに10分と掛からず、ヘッドライトをたよりに急峻な登山道を登り始めた。
俺がとったコースは何らかの理由で通行止めにされているルートで、登り始めて間も無く木製のバリケードに行く手を阻まれた。しかし山の中にあるバリケードほど意味の無いものは無く、俺はその直ぐ横を何事も無かったの様に回り込み更に前進した。
ちなみに通行止めの理由は表向きは道路の崩落とされているが、実際はマヤカンへダイレクトにアクセスできるルートなのでその意味で通せんぼしているのである。
日が昇る前なら虫の活動も無く、顔にたかってくるような蚊の襲撃も無く非常に快適だった、瀬戸内海から吹き上げてくる風も心地よく、次第に明るくなってくる山道を携帯ナビを時々見ながらロストしないように着実に標高を稼いで行った。
そして、

「間も無く目的地です。音声案内を終了します」

という携帯ナビの音声が聞こえた直後、目の前の視界が急に開け灰色の建物が突如目の前に現れた。


「来たよ・・・とうとう」


憧れの摩耶観光ホテルに到着した瞬間だった。

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取材日時 2008年 9月3日

コメント・この物件名は当然のことながら正式名称ではない。
既に探索した中途でこの物件の正式名称は判明している、電話番号も分かったが電話をしてみても使用されておらず、どこにも通じない。
だからカーナビで検索してみても一切ヒットする事は無い。
最初にこの物件の存在を知ったのは、かつて放送していたネットラジオ「イニシャルG’Z(イニシャルジーゼータ)」にてパーソナリティのキャプテンさかもよ氏が、かの有名な怪談百物語を読んで実際にそれについて調べてみたところ、山の牧場と呼ばれる物件が実在する事を自らの調査で明らかにしたという話を聞いた時だった。

ちなみに山の牧場とは何か?
今からおよそ20年前、新耳袋著者の1人が大学の卒業制作で映画を撮っていた。ロケハンで踏み入れた兵庫の山中である、山頂に辿り着いた彼は奇妙な光景を目にす。
赤い屋根の牛舎、しかし牛を飼った跡がない。 階段がない二階建の建物。 その一室に御札がびっしりと貼ってあった。この山の上にある不気味な牧場とはいったいなんなのか?
これについて、ネットでは様々な憶測が飛び交い2ちゃんねるでは専門のスレッドが乱立し、一時騒然となった時期があった。
現在はすっかりそれも鳴りを潜め、忘れられた存在となっている。ネットの住民たちは飽きるのも早い。今は山の牧場に関するスレッドは存在しておらず、話題として取り上げられる事は殆ど無くなった。
しかし取り壊しされたと言う情報も無く、詳しい探索レポートも限られたサイトでしか紹介されていなかったので、それなら行く価値はあるだろうと判断。
今回の探索のリストにくわえる事にしたのだった。
そして、今ではグーグルなどで簡単に航空写真を見る事が出来るために、現地へ行かずして簡単に物件の存在を確かめる事が出来るようになり、今回の長期遠征の出発直前に確認した結果、まだ山の牧場は存在する事が確かめられたのだ。
そして、この日降水確率80パーセントを軽く越えているであろう鬱陶しい日に、兵庫県の山奥へ携帯ナビと地図を頼りに分け入り、とうとう本物の山の牧場にたどり着く事が出来たのだった。

目の前に立つ物件は、まさにネットで見てきたそのものだった。
県道から目印の無い分かれ道に入り、轍が深くこの先に本当に何かが有るのか?と思わせるような荒れたダートをゆっくりと走る事10数分。
その道の終点に「山の牧場」が正に忽然と姿を現したのである。
本当に実在するとは最後まで信じていなかっただけに、その衝撃は尋常ではなかったが、それ以上にこの建物に対する破壊の痕跡が全くと言っていいほどに無いのが余りにも不気味だった。
パッと見にでは廃墟ではなく、使っていない牧場風情といった感じで、いつでもオーナーが戻ってくれば稼動を開始することが出来るほどに程度は極上だった。
スライドショーを見ていただければ分かると思うが、特筆すべきは一枚もガラスが割られていないのである。
事務所(住居?)と思しき建物は施錠されておらず、簡単に中に入る事が出来る、しかし内部に生活の痕跡はあるもののライフラインは当然の様にストップしている。だが、放火や荒らされた様子も無く、いつ人が帰ってきてもおかしくない感じで、それが返って不気味さを強調していたと思う。
家畜が居たとされる厩舎の方は、確かに牛が居たと言う形跡を認めるのは困難で、そこで種付けをしていたと思われる器具(牛用の巨大なクスコ)があったりしたが、あまり長い事操業をせずにクローズした感じがする。

その他には農機具を収納している部屋等があったが、コウモリの住処となっていて、満足に探索することはできなかったが、あの一連の騒動の根源となったとされる場所にしては、意外と開放的で牧歌的な雰囲気があり、拍子抜けしてしまった。だが、間違いなく自分がいる場所は人里はなれた山奥であり、携帯の電波もかなり厳しい。ここで何かしらの事件に巻き込まれたりしたら、助かる可能性は極めて低いと思う。新耳袋で語られたような「黒服の二人組みの男」がいつ現れやしないかと実際は戦々恐々としながら探索をしていた。
画像でも分かるとおり、この日は一日中悪天候に見舞われ、止む事の無い雨の中の探索となった。
奈良DLでの失敗を教訓に、この日は屋外での撮影では徹底的に雨に対して警戒をし、傘を差しながら撮影をするというスタイルを貫いた。
性能が格段にアップしたカメラのお陰なのか、傘を差しながらの撮影でレンズに水滴が付かなかったのが良かったのか、降りしきる雨粒がはっきりと写り込み、雰囲気はそれなりに出ていると思う。
こんな雨の日、結局2時間以上もここに滞在していたが誰一人来る事は無かった。


 
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取材日時 2008年 9月3日

コメント・和歌山に在住のマリリンさんから頂いた情報を元に探索した物件である。
前日には新神戸駅のビジホに拠点を構え、来るべき摩耶館突入に向けての日として準備を進めてきたが、この日は生憎の悪天候にて摩耶山登山は中止、その代わりに「山の牧場」突入に急遽計画を変更、その前日にはマリリンさんからの「吉○園」の情報ももらい、これはその一発目。
兵庫県を南北に走る交通量の多い国道沿いを北上し、山間部に出来た新しいトンネルを抜けた直ぐ先に、当該物件はあった。
マリリンさんはこの場所へは自分の運転でやってきたと言っていた、それなのにいざ詳細な場所を聞き出そうとすると「ようわからへんねん♪」と口を濁していた。
実際に車で行けば思い出すというが、道を説明するのは難しいというのだ。一体どうなっているんだか・・・・。
とにもかくにも分かっている限られた情報を頼りに携帯を駆使して収集し、場所をおおよそ絞込み、この日は昼過ぎに突入する予定の「山の牧場(これは某ブログにて場所特定済)」とセットで廻る事になった。
実際「吉○園」は意外と簡単に発見できた。自分が手にしていた情報は古く周辺の道路状況も大きく変わっていたが、それに伴っての解体も免れ、カテゴリーとしては廃結婚式場とな当該物件はかなりの大規模だと思う。
突入は容易く、内部は破壊と不法投棄の無法地帯と化していた。特に感動するような目新しいものは無かったが、猫の死体あり野良人の生活痕跡あり、AV撮影現場跡あり、レイプ事件現場有りとなかなかに廃墟らしい廃墟のテイストは揃っていたと思う。

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取材日時 2008年 9月2日

コメント・溜まった洗濯物を片付ける事と、一両日中に実行する事になる「摩耶観光ホテル」突入に備えて体調を整えるのとアタック当日に備え、取り付く予定にしている登山道の入り口周辺の様子を下見する時間を設けると言うのを兼ねて、暫く神戸のビジネスホテルに滞留する事になった初日は、健全な観光をしておこうと思い直ぐ近くの北野町に出かけ、近代建築がひしめく異人館を歩いて見ることにした。
廃墟探索ではないので、一般観光客と同じ行動パターンをとる。人目を気にしたり物陰に隠れる必要も無い、堂堂と近くの駐車場に車を停めて見て廻る事も出来る。
オネイチャンが歩いているのをジーーーっと眺める事も何ら問題は無い(汗、いたって健康的な普通の観光をしてみた。
異人館の中でも人気の高い風見鶏の館はこの日休館日だった為に残念ながら探索・・・いや観光する事は叶わなかった。

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山手八番館関連画像はこちら

旧中国領事館 関連画像はこちら    

 

       

取材日時 2008年 9月1日

コメント・情報の提供元は現在首都圏に生活の基盤を置いているが、もともとは大阪阪南市の出身である湧き水氏である。今回の物件はその彼が地元に生息していた頃に足で稼いだ情報による緊急追加物件なのだが、実際に探索した結果予想以上の収穫があった。
現場は表題のとおり生駒山のある場所に人が住まなくなってかなり経つ別荘が点在しているのだが、どれ一つ見ても楽な探索をさせてくれなかった。その理由として、依然として猛威を振るっているヤブカの大群。そして昼過ぎというのに日没前を思わせる鬱蒼とした森、住民が退去してからというもの全く人の手が入っていると思えないような雑草の密度。高湿度の為に凄まじい勢いで朽ち果てている建物、その内部は正に阿鼻叫喚の世界で最近の探索ではもっとも気分が鬱になる所であったと言える。
中でも最もきつかったのは、某大手サイトにて「呪われた山荘」として紹介されていた、殺人遺棄死体が発見された廃屋を探索しそれを後から知らされたという事だった。
確かに、その現場に足を踏み入れた時に何とも言えない嫌~~な空気を感じた事は感じた。なんというか無言の拒絶の意志というか圧迫感というかとにかくあまり長い時間そこに居たくないという気持ちにさせる何かを感じた。
最近は大物物件に飽き足らず、こうした廃屋にも突入するようになったが、やはりどうもこの手のジメジメ感は馴染めない。
居心地のいい廃墟とは、やはり工場とか鉱山の眺めのいい所に座り、外界と隔絶された空間に身をおくというあの独特の孤独感が味わえる場所がある所だと思っている、しかしこの手のジメジメベトベト廃屋は探索を終えたら一刻も早く脱出したいという気持ちになってしまう。

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コメント・突入が叶わなかった物件となった。
「蜥蜴第三の目」の元管理人であるファイティング・リザード氏のネットラジオ「蜥蜴は見ている」で、ここの物件が紹介されて以来、俺はその物件の正体を探る為に長い時間を掛けて調査してきた。
そして、長期ローラー作戦に出かけるほんの少し前に甲○FLの所在地や笠置ホテルの所在地を詳細にグーグルマップに公開していた某ブログの情報がヒット。
場所も分かり、正式名称も分かり、その沿革も判明した。後は実際にその場へ行って入れるかどうかだけだった。
しかし、現場には奈良FLよりも比べ物にならないような厳重なセキュリティが敷かれており、周囲のヤブは背をはるかに上回る高さに達しており、全く視界が利かない、そして建物へ接近出来ると思った獣道にはスズメバチの巣があって進撃を断念。そして、その物件の保守管理を任されている大阪ガスのガードマンが出勤してきたので、内部への見学を交渉してみたが予想通り拒否された。物件の所有者はこの物件がある自治体であり、そこの教育委員会に申し込むしかないとの事で断念した。
廃病棟の中でかつてはリザード氏が主導でサバイバルゲームや鍋パーティが行われた事があったが、当時と現在では所有者が同じであっても管理を任されている所が違う為に、リザード氏の名前(本名)を出しても全く話が通じなかった。訪れた時期が遅かった、そういう結果となった。

結核隔離病棟の周囲は鬱蒼とした林に囲まれている。
木々の間から僅かに見えるかわら屋根、
あれがなんの建物なのかは分からない。
とにかく外からは全く見えないようになっているのだ。
門から入れないので、脇から迂回して入れる獣道を発見。
正面奥の木に問題があった。
画面中央の明るくなっている部分が日本が世界に誇る
殺人蜂「オオスズメバチ」の巣の出入り口である。
俺は2メートルほど近くに接近するまで気が付かず、
門番が威嚇する羽音に気がつき、体制を低くして
静かにその場を離れた。
気が付かないで通過していたら背後から襲われていたに違いない。
ということで、正面からのルート絶たれてしまったので、
さらに大きく迂回してみようと思ったのだが・・・・。
とにかくヤブカが凄い・・・虫除けを何度も顔に吹き付けては
むせて咳き込む。体に良い訳が無い。
道の脇にはこれまた正体不明の建物が。
しかし近寄る事も出来ず、この程度しか見えない。
結局、ここは突入不可の管理物件という事で、
潔く探索は諦める事にした。
余りにも障害が多く、一つだけを取り除けばどうにかなるという
レベルでは無かったからだ。
これ以上の深入りは危険と判断し、現場を離れる事にした。

取材日時 2008年 9月1日

コメント・昨日購入した新型カメラ、FinePIX S9100の初陣を飾るのは、近畿方面では知らない人は居ない廃旅館一龍である。正式名称はここでは敢えて挙げないが、この旅館の雰囲気とはおよそ似つかわしくない名前であるという所までは記しておこうか。
この日も連日の高温多湿の中での探索となった。近くに溜池があり(さすが泉州と言うだけ有って、至る所に溜池がある)ヤブカ大発生の格好の場所となっている。それゆえに今回の探索は襲い掛かってくる蚊との戦いであった。この深い極まりない小動物との戦いはこの後伊万里造船所まで続く事になる。
前述したように超有名物件であるとともに心霊スポットでもあるために、例外なく徹底的に破壊され尽くしており特に目にとまるようなものは無いと言える。
先日の笠置旅館と同じで「とりあえず足を踏み入れた」程度にしか捉えていないので、画像も決して多くは無い。とにかくむせ返るような湿度とかび臭さ、何とも言えない重苦しい妖気、そして部屋の奥まで執拗に追いかけてくるヤブカの襲撃に堪りかね、駆け足で探索を終え外に脱出した。
この時、俺はアプローチの方法を間違え表の府道から車のキレを狙って突入したのだが、よくよく調べたら物件の裏にある遊歩道から簡単に入り込む事が出来るという事を後から知りその場にへたり込んだ。
まぁ、最初に難しい場所から入りそこからしか見る事の出来ない建物の様子を写真に納める事が出来たのだから、まぁヨシとしなければいけないだろう。
それ以上に、今回のカメラは流石に型遅れとは言ってもA-200よりは格段にスペックが上である。電源投入後の立ち上がりも早いし、光量の厳しい廃墟の内部でもフラッシュを使う事は稀だった。テブレにもかなり強く少々重たい事を我慢すればホールド性も悪くない。そしてなんと言っても記録メディアがこれまでのCFが流用できる事、そしてXDピクチャーカードとダブルで装てんして置けば、動画専用と静止画専用にカードを使い分けるなどして、大容量の映像画像を記録する事が出来る、そしてこのカメラの購入を決定付けたのが電源だった。単三乾電池という全国どこでも手に入る電源が旅行先でのバッテリー上がりの不安を一気に解消してくれたと言える。

   

 


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