東国満珠干珠伝説 その2 二玉姫神社 旭市中谷里 | 未知の駅 總フサ

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千葉県=東国は蘇我氏に縁の地であったという痕跡を探し、伝承・神社・古墳など諸々を調べています。

百嶋神社考古学にご興味を持たれた方はブックマークの「新ひぼろぎ逍遥」さんを訪ねてみてください。

さあさあ、東国満珠干珠伝説 その2 は旭市にある、

こちらの神社です。

 

二玉姫ニノタマヒメ神社

旭市中谷里字西ノ内659

 

入り口の鳥居

参道の途中から鳥居方面を振り返り

拝殿方向

手水舎

神紋は左三つ巴

 

本殿を左から 女性的な装飾ですね

背後から

右から うーん暗い

境内の石碑

 

 

二玉姫神社は「千葉県神社名鑑」によれば社名は仁玉姫神社、御祭神は玉依姫とされています。大永5年(1525)に社殿造営、33年目ごとに御神幸祭があると記載されています。

 

御神宝は「玉」となっていて、これが社名の由来となっております。

以下、上の画像の石碑より。

 

二玉姫神社の由来と御神幸祭

二玉姫神社の御祭神は玉依姫命と申され鵜茅草萱不合尊のお后で神武天皇の母君に当るお方でございます

明治八年に記された棟札により御祭神は玉依姫命であることが判明しお宝の二つの宝珠は満珠と干珠で二玉姫と称される所以ではないかと拝察いたします

今から四百七十八年前 大永五年西暦一五二五年この地に創めてお宮を造り 二玉姫神社と申し上げ人々の心のよりどころとして崇敬されました

三十三年目毎に御神幸祭が行われるのは神仏一体の頃先祖様祭は三十三年で終りになり神様が氏子の生活の様子 農作物の状況 漁業の有様などを御覧になり 海で禊をして五穀豊穣漁業の発展をお祈りして神社にお帰りになる行事を申すのであります

平成十六年三月吉日

 

また一説には二玉の由来は海神の「満珠」「干珠」の二つの玉を指すとともに、海神の娘である豊玉姫と玉依姫の二人の名の玉に由来しているといい、社宝として二個の玉が残されているといいます。

 

「千葉県海上郡誌」には仁玉姫神社の表記で記載があり、社宝の玉に関しては「神体の二個の宝珠は石質で往古海岸に漂流したるを奉祀したるなりと伝う」と書かれていました。

 

実は中谷里の二玉姫神社と同じ表記の神社が市内にもう一カ所あります。それがこちら。

 

二玉姫ニタマヒメ神社

旭市中谷里7963

 

鳥居には「二玉姫神社」の文字

柵の中にはお社があります

お社の背後の石碑には

「仁玉姫神社」の文字が

狭くて引いた画像が撮れませんでした

小さいですがとても綺麗に管理されていて

大事にされているお社だなぁと感じました

蜘蛛の巣もなかったし

 

 

こちらの二玉姫神社は先にご紹介した神社の分社になると思います。本社である二玉姫神社がある「中谷里」に隣接して「仁玉ニッタマ」という地名があります。

この「仁玉」の地名由来が二玉姫神社だといわれておりまして、仁玉の「仁」は二人の姫・豊玉姫と玉依姫のことで「玉」は宝珠のことだそうです。古い書物には仁玉姫神社と表記されていることから、近年までは仁玉姫神社とされていたのかもしれません。

 

「千葉県神社明細帳」は明治12年に国に命じられて編纂されました。その「神社明細帳」には分社のことは載っていなかったので、少なくとも明治12年以前には鎮座していなかったと考えられます。

おそらく近年になって御神幸で海まで神輿が来ることから、浜沿いに住む人々が勧請したのではないでしょうか。

 

さて、実は非常に気になる記述が「千葉県海上郡誌」にあります。

 

文永元年(1264)の水帳に山野開発の記念として生尾塚に生尾大明神を勧請せしこと記せり。且つ口碑に元禄年中(1688~1704)今の位置に遷祀せし由存するより合せ考うる時は、生尾大明神は或は仁玉姫神社たるべきか。生尾塚は今私人の有に帰し、畑中に数坪の地積を残し荊莽繁茂せるのみ。

 

ここに出てくる「生尾大明神」というのは、この神社のことです。

 

老尾神社

匝瑳市生尾字加知内75

 

そう、延喜式内社の、あの老尾神社です。

なぜ二玉姫神社の敷地に生尾塚なるものがあるのか。

現在はどこにあるのか。

附近を探してみたのですが塚の場所はわかりませんでした。

 

私見ですが生尾塚とは間違いなく老尾神社関連だと思います。

老尾神社の御祭神は主神が阿佐比古命で相殿に磐筒男命・磐筒女命、並殿に国常立命となっております。

主神の阿佐比古命は安房忌部の祖とされていて、忌部系図の大麻比古に比定されています。

つまり、当シリーズその1でご紹介した香取市の側高神社と同様に「忌部」が関わってくるのです。

しかも老尾神社が鎮座する匝瑳市生尾の「生尾」という地名の由来について

 

「フツヌシノカミの第一子アサヒコノミコトが尾の無い白足毛の馬に乗って匝瑳郡に来たが、一夜にして馬の尾が生じたことから生尾という。生尾大明神は牛馬繁栄の守護神なり」

 

という伝承があります。

側高神社と共通の「馬」というキーワードも増えるのです。

 

一説では老尾神社は物部小事を奉斎した社だとも言われています。

でも当神社には古墳がないんですよ!!

ちょっと離れた場所にはあるんですが、境内には無い。

生尾大明神は確かに男神様なんですが古墳時代に生きていた小事さんを祀るなら絶対にイコール古墳がある筈なんですよ。

だからアサヒコさんだと思います。

 

では何故忌部のアサヒコさんが物部のフツヌシの息子とされているのか。たぶんアサヒコさんの嫁の一人が物部出身だったんだと思います。そうすると物部サイドからすればアサヒコさんはフツヌシの娘婿という形になりますから、フツヌシの子供という扱いになっているのだと思います。匝瑳市は物部氏の領地だったからそのように伝わったのでしょう。

 

では二玉姫神社の記述にあった「生尾塚」とはなんなのか?

下の画像を見てもらうとわかるのですが、古代はこのようにほぼ海進で水の中でした。

 

位置は大体ですが、左の赤丸が老尾神社

右の赤丸が中谷里の二玉姫神社

 

 

順番でいうと台地上の老尾神社が先で、海の水が引いて湿地になり、地盤がある程度固まった後に生尾塚や二玉姫神社ができた流れだと思います。

 

もしかしたら生尾塚とはアサヒコさんの子孫の物部系忌部氏の塚であったのかもしれません。だから「生尾塚」と呼ばれ「生尾大明神」が勧請されたのでしょう。

そして側高神社と同じように宝珠に係る忌部であることから、二玉姫神社ともなんらかの関りがあったのだと考えます。

 

余談ですが「匝瑳」という地名。

忌部にちなむ解釈なのか「狭・麻」で「美しい麻のとれる土地」という意味でサ・アサであったのが転訛してソウサになったといわれています。

でもなぜソウサに匝瑳という感じを当てたのか。

実は「匝」の意味には「めぐる・周囲をまわる」があります。

「瑳」には「あざやか・玉の色があざやかなさま」という意味があります。

 

そうすると匝瑳=あざやかな玉の周りという意味が浮かび上がってきます。もしや匝瑳とは宝珠の周りという意味なのかも?

 

ではなぜ玉崎神社に宝珠を持っていかなかったのでしょうか?

私見ですが、その時の玉崎神社は宝珠を護る担当ではなかったのかなぁと。そう考える理由はこれです。

 

 

画像の神紋からもわかるように、玉崎神社はいつの間にか藤原氏の管轄になってしまっています。

しかし宝珠は元々海人族の神宝であり、藤原氏の物ではありません。

そのため宝珠を扱えなかったのではないかと。

だから玉崎神社ではなく、二玉姫神社の方に納めたのだと思われます。

 

後年、一宮の玉前神社が戦禍に巻き込まれ神官たちが宝珠を持って非難した時には旭の玉崎神社に宝珠もありましたが、これはその時の神官同士の交流があったからですし、現在も旭の玉崎神社には神宝に宝珠はありません。

日本武尊が使っていたという御旗はありますけどね。

 

 

 

さてさて、二玉姫神社の玉依姫はどの玉依姫なのか?

神玉依姫か、鴨玉依姫か、活玉依姫か。

 

個人的には神玉依姫だと思います。

玉前神社と空気が同じ。

大永5年(1525)に社殿が初めて造られたと記録にありますが、それ以前から小社であるとか、聖跡であったとか、何か謂れのある場所だったのだと思います。

 

なぜ1525年に当地に社殿を建てたのか。

その原因ではないかと思われる現象が旭市では起こっています。

そしてその現象で影響を受けた神社が他にもあります。

それがコチラです。

 

海津見神社

旭市下永井字峯53

 

 

 

通称:永井の妙見様と呼ばれる神社で、境内にある石碑によれば

 

御祭神は豊玉姫尊と申し上げ御創祀は奈良時代末の光仁天皇の宝亀巳未十年(779)この地に渡来した海人族が祖神を祀ったと伝う。

神仏習合時代千葉氏の支族海上氏の支配により氏神妙見菩薩に重ね妙見宮と称し社紋も九曜星を用いる

明治時代に海津見神社と改める

鎮座地には刑部岬突端より再再遷座

明治十七年現地に鎮斎

 

とあります。

 

当神社の看板には鎮座地であった刑部岬突端が欠損したために数度遷座したことや、寛政六年の下永井村絵図には御社殿が突端中腹に描かれているとあります。

明治17・18年遷宮の記録があり、その後山津波により明治35年頃、現在の地に遷座したといいます。

 

このたびたび欠損したという刑部岬突端は往古は竜王岬と呼ばれていました。竜王岬には妙見様を祀る妙見山長徳寺や下総二宮の玉崎神社、そして海津見神社もここにありました。

海蝕により刑部岬が削られ、砕かれた岩が波に洗われて砂となり、美しい九十九里海岸が出来ていたことは科学的にも立証されています。

現在海蝕を防ぐ防波堤が出来たために九十九里海岸の砂浜は殆ど失われてしまいました。

海蝕により欠損した岬があった証拠に、飯岡漁港近くの海岸に墓石が寄り付いたという記録が残っています。おそらく海に沈んだ長徳寺の墓地にあったものでしょう。

 

玉崎神社も海蝕により現在地に天文二年(1533)に遷座してきたといいます。海津見神社も同様です。

そしておそらく二玉姫神社も大永5年(1525)に竜王岬から遷座してきたのではないでしょうか。

岬の海蝕により複数の神社が遷座をしたと考えると、この地域で1500年代に社殿が造営された神社の説明が納得できます。

 

 

 

最後に、匝瑳は物部の領地という歴史的解釈が強いですが、実際は物部系忌部氏の領地であったのかもしれませんね。

生尾塚に関しては、あそこか・・・?という場所があるのですが、ヒントがなくて確証がないので、気長に探索していこうと思います。

さて、最後に中谷里の二玉姫神社の境内社をご紹介。

 

 

おおう、神々しい!

浅間神社

不明です

板碑たちと不明社

 

 

 

めちゃ個人的な見解ですが

例えるなら神玉依姫は有村架純さん、

鴨玉依姫は中村アンさん、

活玉依姫は上白石萌歌さん。

 

神玉依姫は聖母的で気品がある方。

鴨玉ちゃんは、あの方は本当に、

ドッキリ好きというか(笑)

彼女に関してはある出来事があったので、

またの機会に記事にしますね(笑)

活玉ちゃんは聡明で奥ゆかしい。

旦那さんと一緒に祀られている神社があるのですが、

本当に「三歩下って」というか大和撫子ですね。

 

宝珠シリーズが終わったら

三人の玉依姫について書こうかな。