わわわっもう今年もあと数日じゃないですかっ!
部屋の片づけしたり、掃除したりしてたらあっという間に12月後半に!
今年最後の更新だと思いますが、お付き合いください。
さぁ東国満珠干珠伝説その3です!
今回は前回の二玉姫神社からそんなに離れていない場所に
鎮座されているコチラ。
六社大神
匝瑳市野手字宮ノ内1494
お寺に隣接しています
車はお寺の駐車場を使用して大丈夫だと思います
ながーーーーい参道
遥か彼方に拝殿が見えます
拝殿の前に到着
神紋は違い角
神社名は御祭神の六柱の神様からかな
本殿を左から
おっ後ろに境内社がある
・・・ん?
んんっ!?
カンガルー?カンガルーだよね?
それともワラビー?
残念ながら対になってはいないので狛カンガルーではありません
背後にあるお社は社名不明
気を取り直して本殿を後ろから
本殿を左側から
この六社大神の御祭神は
伊邪那岐大神
伊邪那美大神
天照大神
月読大神
素戔嗚男大神
蛭子大神
の六柱です。
御由緒は「千葉県神社名鑑」には
第43代元明天皇の和同4年3月16日、御幣使従五位菅氏が、本社家従五位連浮橋国義一人、下社家14人を従えて京都から来儀、東野手の地に宮柱を建てて一社を祀ったのが本社の始源である。万寿3年御一条天皇の御代、浮橋左京亮国次を奉幣使として西野手の地に分社を建て六所大明神と称し祀った。
のちに東野手の本社を廃止、宝徳2年現在地に新殿を建立して祀った。この時の奉幣使は浮橋兵庫亮中臣隆清である。明治維新まで六所大明神。明治元年に六社大神と改称する。
とあります。
補足事項として、「匝瑳郡誌」には
人皇40代元明天皇の御宇に六條右大弁蔵満郷、東に御勅使の時、匝瑳郡に暫逗留有之云々
六社宮は元明天皇之御氏筋故に御勧請之重て天機被仰出御勧請之宮に候云々
御奉幣使菅原氏従五位一人本社家五位浮橋登正国義一人下社家14人云々とあり
又古記に同村作佐部久右衛門、大木利右衛門の両家は古昔より祭事に参与し、神酒及鏡餅を供するを例とす
何れも本村の旧家にして本社と関係を有するものならん
と記載されています。
さらに明治期に編纂された「千葉縣神社明細帳」には
勧請年月詳らかならずと雖も古老の口碑によれば常陸国筑波郡筑波神社より玉串璽を移し来るよし、造営は万治3年丙寅年中、再建は元禄9丙干年中なりと云う(中略)明治41年5月22日八坂大神を本社へ合祀
とあります。
筑波神社を勧請ということはイザナギ・イザナミの御夫婦はそちらからいらした?もしかして最初から六柱奉斎していたのではなく、徐々に合祀されていったのかも。
奉幣使菅氏ではなく菅原氏の誤記のようですね。
そして彼らがくる前に六條満郷が来訪したことと、
もっとも重要な部分である「元明天皇の御氏筋故に御勧請」という事実が削られています!
誰だよ削ったの!!
本当にですね、こうやって何気な~く、さりげな~く、
歴史上の不都合な事実は葬られていくんですよ。
なぜなら日本の歴史は勝者の歴史だからです。
「勝ったもん勝ち」という言葉の意味はこういうことなんですね。
でも在地の歴史愛好家たちを見くびらないでほしいですね。
ガンガン掘り起こしてやる(鼻息荒)
さてさて、元明天皇に関係してるからってなんなの?と
思われている方もおられると思います。
私が支持している天智天皇・天武天皇時代の二重王朝説は
蘇我王家や出雲皇家が総べていた日本に亡命百済王朝が起こり、
それを唐が支援したことで国内が乱れ、最終的に蘇我王家を始め列島諸国の王家が滅び現在の天皇家に繋がったという、通説の歴史とは大幅に違う歴史です。
その二重王朝説では、現代の「正史」と言われている歴史の蘇我氏に関係する飛鳥・奈良・平安時代あたりの皇統と、亡命百済王朝を改竄により一つにまとめたものだという解釈になっています。
そのため、この時期の歴史的人物は非常に分析が難しく、例えば存在をまるっと消されていたり勝手なエピソードを足されているのは勿論のこと、名前だけ使われて実績については別の人物であったり、数人をまとめて架空の人物を作成したり、本当は正当な皇家の人物なのに庶子に落とされていたりするのです。
百済側が正当王家であることを裏付けるため、真実を隠すそうと彼らも必死です(笑)
何でもありです。
元明天皇は史実だと天智天皇の娘で阿部皇女。
母は蘇我倉山田石川麻呂の娘・姪娘です。
二重王朝説だと元明天皇は天智天皇=蘇我連子の子で志貴皇子です。通史ではほぼ存在を消されています。
天皇の諡号は淡海三船が弘文天皇と文武天皇を除いた神武天皇から元正天皇までの全天皇と神功皇后の漢風諡号をつけたとされています。
その淡海三船、実は大友皇子の曾孫なのです!
大友皇子は二重王朝説では蘇我連子の子で蘇我果安ハタヤスとされています。
そんな彼がつけた諡号には絶対にわかる人にしかわからない暗号を残してくれています。
よく「徳」の字がついている天皇は非業の死を遂げた人物といわれてますよね。
蘇我氏が台頭してきた時代の「明」のつく天皇とは、どういう選別で付けられたのかなと思っていたのですが、どうやら物部宗家の血が入った蘇我王家の大王につけられた諡号のようなのです。
では「明」にどのような意味があるのか?
神社で日月神社がありますが、この「日月」を指しているのではないかと。
日月→「明」という意味ではないかと考えています。
つまり日神(天照大神)月神(月読大神)を祭祀する王を指しているのだとすれば、千葉県には蘇我氏関係のところで「日月神社」がいくつかある裏付けにもなります。
どちらの信仰が物部で蘇我なのかは不明ですが、太陽と月、そして北辰も含めて、それを信仰する民族を総べる王という意味が、三光紋なのかも。
信仰が異なる民を一つにまとめるために作成した紋なのかもなぁ。
「和をもって尊しとなす」だし。
その精神を継いだ天皇につけられたのが「明」だったのではないかと考えています。
そんな元明天皇=志貴皇子の「御氏筋」ということは、志貴皇子の親族か関係者が当地に居たことから勧請したということになります。
あああああ!
満珠干珠伝説なのに!
蘇我氏が書きたい!!
って書いてますが、この深堀りはここまでにして
宝珠に戻りますっすみませんでしたっ!!
次回改めて追及します。
さて、六社大神にも海から上がった不思議な珠の伝説が伝わっています。匝瑳市のHPにて「野栄町史」に伊橋家に伝わる由緒が紹介されております、詳細はそちらでご確認してみてください。
抜粋すると当神社に伝わる珠は海からあがったもので、海底で霊光を放っていて、しばらくして村人が波打ち際で玉のような小石を二つ発見し、神官のところへ持ってきたので神殿に供えられたそうです。
霊験もあらたかで、神殿に納められてから野田の浦では大漁が続き、村人は豊かになったそうです。
珠の力には魚を呼ぶ力もあるんでしょうか、すごいなぁ。
銚子にサンマを戻してくれよう!
そしてこの由来記を書き残したのは中臣定次という人物なのです。
応永23年(1416)9月の出来事なのですが、当時中臣氏が神職として上総にいたんですね!
定次はこれが契機となり、当地に海神を祀った際、神官となったといいます。野田龍神と呼ばれていたそうですが、現在附近には石祠の龍神社が二社あるだけで、大きな神社はありません。
旧野栄町は旭市の玉崎神社と深い繋がりがある土地でもあり、縣主がいたことが判明している地でもあります。記録には残されていませんが、かなり古くから開拓された土地であったと考えられます。
重要な鍵となる土地な感じが否めないので、今後も多方面から調査していこうと思います。
最後に境内社のご紹介。
本殿裏にある石祠たち
左は不明
中央は●振媛の文字が脇に見えました
右は橘紋があります
本殿右側にある石祠たち
社務所横の石祠と石碑
左から三つ目の石碑には天照皇大神宮の文字
手前の石碑には松崎社神幸記念の文字
昭和58年の修繕の記録
玉崎神社御神幸の由来が記されています
修繕の記録
平成25年に台風被害で倒木により本殿が倒壊していたそうです
参道の脇にあった石祠
社務所新築記念
最後にオマケで取材に行って「ここはすごい!」と思った神社
ベスト3をば。
3位 茨城の笠間稲荷神社
お力が強い狐さんのいる神社だなと思います。
本当にお願い事を叶えていただきました。
2位 東京都台東区の小野照﨑神社
小野篁さんに取材したくていきました。
厳しいことも言われたんですけど、
なんだかんだでお願い事叶えていただけていると感じてます。
1位 千葉県いすみ市岬町中原の中原玉崎神社
ここの御祭神がスネスネだったんですけど(笑)
こちらは境内にある琴平神社がスンバラシイ!
その場に入ると足元からすごいエネルギーがブワ~ッと放出されている感じで、めちゃくちゃ清地スガチなんです!
ドラクエでヒットポイントが回復するポイントがあるじゃないですか。
境内に入ると本当にHPが回復するような感じなんです。
いすみ市の玉崎神社たちは来年記事にしますので
お楽しみに!
いろいろな事がある現世ですが、
なるべく明るい気持ちで前向きに、
笑顔と感謝を忘れず人生を楽しみましょう!
それでは、皆様よいお年を!