東国満珠干珠伝説 その1側高神社 香取市大倉 | 未知の駅 總フサ

未知の駅 總フサ

千葉県=東国は蘇我氏に縁の地であったという痕跡を探し、伝承・神社・古墳など諸々を調べています。

百嶋神社考古学にご興味を持たれた方はブックマークの「新ひぼろぎ逍遥」さんを訪ねてみてください。

夏場に折角取材したのに諸事情により没となった神社があったり、

涼しくなったら体調を崩したり(現在進行形)で

更新が大幅に遅くなってしまいました(土下座&くやし泣き)

 

生きてます!

生きてます!!!

 

(笑)さて、ずーっとコツコツ調べていた件が

ようやくまとまったので、ご報告したいと思います♪

 

題して

 

「東国満珠干珠伝説」!!

 

 

九州には神功皇后が新羅征伐の際に海神から二つの珠を授かったという伝説が伝わっています。

二個の珠はそれぞれ満珠(まんじゅ)干珠(かんじゅ)といって、満珠は海に投げ入れると潮を満ちさせる呪力があり、干珠はその逆の呪力を持つとされています。

 

福岡県宗像市の宗像大社では「神功皇后が新羅に向かう時に、豊玉姫が海の神から潮満瓊(しおみちのたま)・潮涸瓊(しおひのたま)を授かった」と言い伝えられています。

他にも福岡県久留米市の高良大社、同県福岡市の筥崎宮、同県北九州市の和布刈神社、山口県下関市の忌宮神社にも伝わっています。

 

少し前に市原市の武市神社を調べていた時に読んだ「阿蘇神社祭祀の研究」村崎真智子著には、「草部吉見神は火の玉・水の玉という不思議な二つの玉を持っており、それは草部吉見神社の社宝となっている。水の玉は雨を降らせ、火の玉は雨を止め日を照らせる力がある。この水の玉・火の玉は満珠・干珠ともいう。」という伝説が紹介されていました。

 

そしてですね、我が千葉県にも幾つかこの二つの珠に関する伝説があるんですよ!

その代表ともいえる神社がコチラ。

 

側高ソバタカ神社

香取市大倉字側高1

 

国土浄化、すごいなぁ

参道を昇ると

拝殿です

左から

右から

正面、といろいろな角度から撮ってみました

扁額はシンプル

神紋は菊と五七桐

でも男神様な感じではない

だってほら、本殿見てください

この装飾と言い、とても女性的

こんなに繊細な装飾がされている本殿は初めて見ました

しかもフルール・ド・リスがあるということは

やはり女神様

鳥の彫刻

こちらも鳥

本殿正面の彫刻は・・・よく見えず、ナンダロウ・・・

神紋の菊

境内から参道の階段方面の眺め

 

 

側高神社は香取神宮の第一摂社とされており、社伝によれば神武天皇18年の創建だといいます。

側高神社は県内に幾つかあって旧下総国エリアと旧武射郡域に鎮座しています。漢字表記が様々ですが、以下すべてソバタカ神社です。

 

脇鷹神社 香取市伊地山字宮本568 

御祭神 高皇産霊命

 

祖波鷹神社 香取市岩部字宮臺1064

御祭神 高産霊尊

 

側鷹稲荷神社 香取市西田部字宮前857

御祭神 宇迦之御魂命、高木命

 

側高神社 香取市丁子字御城567

御祭神 不詳(現在は側高神)

 

側高神社 多古町本三倉字三本松815

御祭神 高御産霊大神、神御産霊大神

 

相馬高神社 芝山町上吹入字稽古353

御祭神 高皇産霊神

 

隣高神社 芝山町下吹入字池ノ内421

御祭神 高皇産霊神

 

蘇波鷹神社 旧都村貝塚

御祭神 大山津美命

 

側高神社 成田市津富浦字本郷120

御祭神 傍高神

 

蘇羽鷹神社 松戸市二ツ木字向台1732

御祭神 高命(現在は国常立命)

 

社名表記がすごく自由だなーという印象。

10社中5社に「鷹」の字が使用されていますが、ソバタカの「タカ」の元字は「鷹」なのか「高」なのか、それともまったく違う「タカ」なのか。

というか、これだけソバタカの表記に統一がないということ自体に意味があるんだろうなぁ。

 

大倉の側高神社の御祭神については「古来神秘として口にすることを許されず、俗に言わず語らずの神とのみ伝う」と書物には書かれています。

香取神宮の古い差定には「起請することあれば必ず此の神に質す」とあり、香取神宮の中では別格扱いであったようです。

 

別格かぁ・・・

そういう扱いをするってことは、それなりの理由がありますよね。

元々は香取神宮の御祭神よりも格が上の神であったとか、

逆に香取側が恐れる祟り神であったとか。

実は本来香取神宮の御祭神であったけど都合が悪いので遷座させたとか。

 

まるで「聞くなかれ、語るなかれ」の出羽三山的な「暗黙の了解」ですが、その一方で「香取郡誌」には主祭神が高皇産霊尊・神皇産霊尊、相殿に天日鷲命・経津主命・天児屋根命・武甕槌命・姫御神と記載されています。

千葉県のHPには姫御神ではなく木花開耶姫命となっており、高皇産霊尊・神皇産霊尊・天児屋根命の名はありません。

「千葉県神社名鑑」では側高大神と載っています。

この他、伊弉諾尊・天照大神・神功皇后ですとか、香取の経津主神の后神が祭神という説もあります。

おそらく他の分社の御祭神がほぼ「高皇産霊命」なのは「香取郡誌」からきてるんじゃないかと。御祭神が不明だといろいろ大変ですから、この説を採ったのではないですかね。

でも伝承の通りだと「名を言えない神」ですから、正解に近いのは「側高神」という御神名だと思います。

 

さて、実際に現地を訪れた感覚からいうと、御祭神は女神様だと思います。香取の経津主の后神説もありますしね。

これは私の仮説ですが、側高神こそ香取神宮に元は祀られていた、今は奥宮に移されている御祭神なのではと考えています。奥宮は女千木ですしね。

香取神宮の奥宮

女千木です

 

 

だってね、県内の他の一宮は女神様です。

(上総一宮玉前神社の御祭神は神玉依姫命、安房一宮安房神社の本殿は女千木だったので御祭神は天太玉命の奥様である天比理刀咩命)

おそらく当時の朝廷にとって、香取神宮の御祭神は非常に都合の悪い女神様だったのでしょう。だからこそ香取神宮から側高神社に移し、さらに「言わず語らず」を強制したのだと思います。

 

 

その他相殿の神々について勝手な解釈を書くならば

 

天日鷲命(忌部)

経津主命(物部氏・トミ一族)

天児屋根命(多氏)

武甕槌命(武甕槌は安曇磯良の説があるので海部)

 

という氏族の御祭神かなぁと考えています。

姫御神については正式な神名もわからず、どなたなのか不明なので省きました。なお木花開耶姫は合祀された一夜山神社の御祭神のことだと思います。

もし姫御神=木花開耶姫ならば阿多隼人の神様だと思います。

 

上の様に考えてみると、ここ最近の調査で必ず出てきていた東国多氏ですとか、下総の鳥見神社・宗像神社・麻賀多神社に関係している旧九州氏族の存在が浮かび上がってきます。

下総の地には旧九州氏族が大勢住んでいたからこそ、九州の伝説に出てくる「二つの珠」が東国にもたらされたのではないでしょうか。

 

 

御祭神の説明が長くなってしまいましたが、側高神社に伝わっている二つの珠の伝説をご紹介しましょう。

「千葉県香取郡誌」にはこのように記載があります。

 

傳へ曰ふ側高神香取大神の命を奉し陸奥に至り荒野を廻り牝牡馬二千疋を捉へ得て帰り常陸国霞ケ浦浮島に達す 彼国の神これを惜み追跡し至る 側高神急に水を済り本郡の地に達す 其の地を馬渡と称す 敵神また済らむとす 側高神満珠を示すに潮水忽ち満ち渡るを得ず 其の地を玉落と称す 尋て川を済り岩ケ崎に達し 其の地を乗越洲と云 馬を香取の境なる牧野の牧に繋き遂にこれを本州の諸野に放つ 故に牧場の本州に多きは此時に基つく 敵神遂に国に還るを得ずして此地に止まる 側高神社と相対するところの追手明神 今追島明神 なるものは其神を祀れるものにして今馬渡乗越洲 今新川と称す 牧野釜塚隠井玉落笠塚等の地名は之に因むと 説の真偽は断定す可らざるも本州に於ける牧場の神話伝説として空看す可らざるものなり

 

この他由来の判っている関係地名をご紹介すると、「牧野」という地名は側高神が陸奥国より強奪してきた馬2000疋を放った名牧にちなむといい、「釜塚」は水田の中にある小塚で、往時側高神が陸奥から馬を捉えてきた際、馬糧として粥を煮て喰わせたが、その釜塚の跡で釜を埋めた所だそうです。

 

そして伝説の裏付けともいえる神事が、かつて香取神宮摂社の一つである忍男オシオ神社で執り行われていた「白状祭」です。名の由来は馬盗みの経緯を白状に記すことから名づけられたといい、神事は12月7日に行われます。

先程の伝説にちなむ地名「笠塚」は丘塚でこの祭の時に、この塚に笠を掛けたことから名づけられたことが由来といいます。

 

忍男神社については香取市津宮字東宮560にあり、御祭神は伊邪那岐神(彦火々出見尊とも)。神社の前の道は旧表参道で経津主大神は海路ここから上陸したと伝えられています。

ちなみに対の宮として膽男マモリオ神社があり、忍男神社を東ノ宮、膽男神社を西ノ宮とし、両社を浜手守護神としています。

膽男神社の御祭神は大己貴神(豊玉姫命とも)。

私的には彦火々出見尊と豊玉姫命の御夫婦が浜手守護神の方がしっくりきますね。

 

忍男の神のところで側高神の代わりに馬を盗んだことを詫びる神事を行うということは、その御子や子孫が馬盗みを働いたということなのでしょうか?それとも忍男の神の御先祖?

 

先にご紹介した九州の二つの珠の伝説がある神社の中で、高良大社の御祭神・高良玉垂命と和布刈神社の御祭神・撞賢木厳之御魂天疎向津媛命もは「潮の満ち引きを司る神」とされています。

側高神はこの方達の後裔なのでしょうか?

何れにせよ側高神は呪力のある二つの珠を使いこなせる、力の強い巫女であったということになります。

だから名前を秘されたのでしょうか?

 

 

香取神宮の后神に関する行事に12月7日の団碁祭があります。

この祭りは神前に神酒を供えないことから后神を慰労するための神事とも言われています。

団碁祭は櫛に団子を串刺しにして供え、雌雄一対の鴨に内臓を盛ったものをお供えします。

この御饌に異様な感じを受けるのは私だけでしょうか?

どうしても団子が目玉に見えてしまうのは、大饗祭の所為かもしれません。

 

いやいや、ホントに香取神宮の大饗祭を動画サイトや記事検索で見てみてください!神前に供える御饌の異様さがわかりますから!

そもそも神様に生物を供えるのはタブーな筈なのに、明らかにアレは異常ですよね?

特殊御饌の「ホカイ」も、私の目には「拘束された人を模した物」にしか見えません。

 

私には大饗祭も団碁祭も、かつて香取の地であった酷い殺戮の名残なのではないか、と思えてならないのですよ・・・

鹿島神宮でも新贄祭では背開きの鯉を神前に供えますし・・・茨城県潮来市の地名由来は国栖をいたく(たくさん)ころしたことに因むといいますしね・・・

 

大饗祭では経津主が、団碁祭では后神が、生々しい御饌を捧げられて過去に殺戮された民らのことを思い出させられ、「我らの言う事を聞かないと、再び酷い事になるぞ~」と念押しされているように思えるのです。香取神宮って場の空気が暗いし重いし・・・

 

そして同日の12月7日側高神社でも例祭が行われています。

12月7日の一連の神事は共通の神の為だとするならば、

側高神=経津主の后神ということになりますから、やはり側高神は女神様でなのだと思います。

 

経津主の后神もどなたなのかわかりませんが、

永く秘されてきた側高神は本当にどなたなんですかね。

 

鹿島の武甕槌神は安曇磯良説がありますが、この安曇磯良=高良玉垂命とする説があります。ということは玉垂命=磯良=武甕槌でもあるといえます。

そうすると側高神とは、

「名前を秘された神」側高神とは、

撞賢木厳之御魂天疎向津媛命・・・?

 

そうすると古代で言う香取海への入り口である海峡の両岸に、潮の満ち引きを司る神々が鎮座していた形になります。

香取の地名も「楫取(舵取り)」=航海士が由来という説もありますし、海に生きる民が大勢住んでいた筈です。

海部と呼ばれる彼らが奉斎したのは、武神ではなく、やはり海に関係する神様であったと思うのです。

東国は本当にいろいろ朝廷の手が入っているので、なかなか真の姿が見えてきません。

くそうっでもジワジワ攻めていくぞっ!

 

 

別の話題になりますが、側高神社には「四箇の甕」というものが境内にあります。

 

これ!

土中に埋まる四個の甕ですね

 

境内の説明板によると

 

 

「四箇の甕の由来

此の四箇の甕を、俗に「四季の甕」と言う。

石段の側から、春の甕、夏の甕、秋の甕、冬の甕、と称して夫々の甕の水量が、四季折々の降水量を示すとも言われる。

自然に溜った雨水の量を以って占の基礎としたものであろう。

神験に依って、その年の豊凶や、生活の吉凶を知ろうとした古人の純朴な信仰が偲ばれる。」

 

この「甕カメ」ですが、利根川を挟んだ茨城県側にある息栖神社にもあるんです。

 

東国三社の一つです

扁額は普通ですが

本殿・拝殿はコンクリート製!

珍しい!

過去に火災に遭ったからなんですかね?

 

そしてこちらが有名な忍潮井

人が大勢いて片方しか写真を撮れなんだ(涙)

確か水の中の甕がはっきり見えると願いが叶うんだったかな?

えーと、何らかのラッキーがあります(ザックリしててすみません)

ちなみに私は見えませんでした

 

 

社伝によると神功皇后3年に造られたそうで、元宮地の茨城県神栖町日川ニッカワから移転した時に、この甕達が自力でついてきたそうです!すごいぞ!

井戸はそれぞれ「男瓶」「女瓶」という名の二つの土器で、水が湧き出ているとされています。

現在の井戸は河川改修により昭和48年(1973)に移転しているそうです。

 

この瓶の他、鹿島の伝承で鹿島の先の海に甕が埋められている、というものがあります。

 

鹿島神宮の拝殿

 

 

利根川を挟んだ側高神社・息栖神社・鹿島神宮に共通するカメ(甕・瓶)は実は忌部に深い関係があるのです。

 

「サンカ研究」田中勝也著によると、下総一(しもうさはじめ)こと印部一郎が語った伝承で

 

「私の印部は神武様の前(カミ)の前、ずうっと前からスガベでごさいます。スガベというのは、清々しく身を清めて、祭事の御供物 容器(イレ)を奉る一族のことであります。神前に延べる斉庭の真菰(茅チガヤ)を編み、御神酒(ミケ)を奉る陶(ヤキモノ)を作り、海幸山幸野幸を奉る箕(ミカラワケ)などを、身を清めて作ります。これが斉瓮(イミベ)で、その遠祖(トオツオヤ)の神が、天太玉命であります。」

 

この記述から、カメを造ったのは忌部の可能性が高く、もし忌部であれば側高・息栖・鹿島の三社に忌部が関係していたという事実が浮かび上がります。

 

側高神社に天日鷲命が祀られている点からも、当地に深く関わっていた痕跡を残している忌部ですが、不思議なことに安房国の忌部関連の神社に甕は見当たりません。

私の推測では安房国は元は真の忌部がいたと思うのですが、後からきた偽忌部(?)に乗っ取られたんじゃないかと思うのです。

そのように考える理由は斎部広成の朝廷への直訴です。

広成は中臣氏と祭祀権を争う中で「古語拾遺」を著しました。

その甲斐あってか、その後は復権されました。

しかし彼の死後、結局忌部の存在は表舞台から消えていきます。

 

藤原氏の掌を返すような対応から、広成は何か藤原氏の弱みを握っていたのかもしれませんね。

でも後裔は見事に表舞台から消えていきます。

いいように使われてポイ捨てされた感が否めません。

側高の忌部は他の氏族と共に滅んでしまったのか、更に北へ移動したのかはわかりませんが、下総から彼らの祭祀の痕跡は無くなりました。

そして次第に落ちぶれてサンカとなり、日本を放浪する流浪の民となったのです。

 

 

最後にいつものように境内社のご紹介。

 

こちらは

毘沙門天!

毘沙門天が祀られているなんて珍しい

神仏習合の名残ですね

狛狐?らしき物があるので稲荷社?

不明社

近づけなかった石祠

不明な三社

御庚申尊神

八幡宮

不明社

不明社

不明社

不明社

 

不明社ばかりで申し訳ないです。

なお本殿には明治42年に一夜山神社(木花開耶姫命)と落書神社(鹿の霊)を合祀しています。

 

 

香取と鹿島と息栖は藤原氏によって息栖が遷座させられた時点で本来の姿では無くなってしまっていると思います。

「千葉県神社明細帳」を調べた方はご存じだと思いますが、香取郡の綴りのあの薄さ!

他郡域と同じぐらい広大なのにもかかわらず、少なすぎる神社数は改竄されているとしか思えません。

おそらく朝廷にとって都合の悪い神社は消されたのでしょう。

 

まぁ難しいパズルの方が燃えるので!

コツコツ取り組みます。

 

次回は「東国満珠干珠伝説 その②」をお届けします。