高市皇子を探して ②大宮神社 いすみ市岬町岩熊 | 未知の駅 總フサ

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千葉県=東国は蘇我氏に縁の地であったという痕跡を探し、伝承・神社・古墳など諸々を調べています。

百嶋神社考古学にご興味を持たれた方はブックマークの「新ひぼろぎ逍遥」さんを訪ねてみてください。

今回ご紹介するのはコチラです!

 

大宮神社

いすみ市岬町岩熊字大宮前(追ノ谷)1409

 

すごく立派な木

一の鳥居

二の鳥居を潜ったところの狛犬達

ごめんなさい、二の鳥居ワープ

三の鳥居

ひいはあ!も、もうちょっと!!

どーんと拝殿

いやあ、清地でした

趣がある佇まい

一定数ある雲モチーフの神社はどういう意味なのか

出雲系ってことなのか?

左側に行ってみると背後に本殿があって渡り廊下で続いている

構造でした、あー本殿の正面が見えない、残念

修繕用の木材なのかなぁ

縁の下にたくさん保管されてます

立てかけてある竹が物々しい雰囲気を醸してます

左側の彫刻は獅子?かな???

背面の彫刻は鳥シリーズ

右側は狐かな?

拝殿の方向を見るとこんな感じです

プロパンガスの容器があるということは、

この拝殿の中にキッチンが?

氏子さんが集まった時に調理したりするのかなぁ

 

この大宮神社は「千葉県神社名鑑」によると、

御祭神は大己貴命さんで由緒に関しては記載がないのですが、

境内にある看板に詳しく説明がありました。

 

 

由来

御祭神 大宮神社(大己貴命)

      熊野神社(久須毘命)

大宮神社の鎮座する岩熊の地はかつては夷隅郡千町庄に属しており、上古には天穂日命の後裔が伊甚国造として現在のいすみ市国府台を中心としてその四方を治めていた。

持統天皇の御代(687年頃)、天武天皇の弟にあたる高市親王の姫が大和国高市郡より上総伊甚郡千町庄、現在のいすみ市小高に移り住み(小高神社の北に姫塚あり)、その家臣の小高氏なる一族が岩熊字上谷に居住した。小高氏は産土神としていた大神神社(奈良県桜井市三輪鎮座 旧官幣大社)をこの地に大宮神社と称して祀り尊崇した。

岩熊区にはかつて熊野神社が存在していたが、氏子が両社に分かれていたのを憂い、宝暦2年(1752年)に熊野神社を大宮神社に合社し、岩熊区の氏神様として現在に至る、現在の本殿は宝暦4年建立と伝える。

 

この大宮神社は高市皇子の娘である姫と共に移住してきた小高氏が奈良の大神神社を信仰していたので勧請したのが大宮神社だそうです。

実は6月に奈良に行ったのですが、大神神社に御参拝に行ってきました。

大神神社

 

今思えば、大宮神社の御祭神は大物主命だったんだと思います。

境内の説明板には大己貴命ってなっているけどね。

だって市原の八幡にある飯香岡八幡宮の大己貴命さんとは

違う方だったし、奈良大神神社の神様と同じ感じでした。

 

すごい前に大宮神社にいったので、神様と何をお話したか

うろ覚えなんですが、確か

 

本当に小高氏がお祀りしたんですか?

 

と聞いたら、そうだと言われたと思います。

で高市皇子と小高氏の関係とか聞いたと思うんですが、

 

自分の目で確かめてこい

 

と、送り出されたんだったと思います。

そう、高市皇子関係神社の取材のスタートは大宮神社から

だったんです。

神社によっては本当にお話してくれない方もいらっしゃいます。

袖ケ浦の菅生神社の方も、こっちを見てニコニコしている

フレンドリーな感じなのに、一言もお話してくれなかった(涙)

たぶんまだお話してくださる段階を経てないんだなぁと

解釈してます。いつかリベンジよ!

その他とっても怪訝そうに様子を見ている方とか、

敵意満々なところとか(汗)いろいろありますが、

今回は答えてくださったので、ありがたかったです。

ちなみに奈良大神神社の神様は私が興奮しすぎで(笑)

全然冷静ではなかったので呆れられている感じでした(笑)

まぁその事とかについては、後日ご報告いたしますね。

 

さてさて、大宮神社を奉斎していた小高氏とは

どのような一族だったと思われますか?

姓氏を調べると、「新撰姓氏録」に京都の小高使主の祖として、

加須流気カスルキ・毛甲モウコウという人物があります。このカスルキ・モウコウとは「高句麗本紀」に出てくる

葛盧カツロ・孟光モウコウ

と同一人物だろうと言われています。

 

つまり、小高氏は高句麗出身の渡来人であり、

姓の小高の「高」は高句麗の王族の姓氏である「高」の

可能性があります。

なぜ王族としたかというと、蘇我氏の祖である継体天皇は

 

実は高句麗出身の広開土王と同一人物である

 

という説があるからです。

ええっまたまたトンデモ説だよっ!と思われるかもしれませんが、

実は広開土王は純粋な高句麗人ではなく、

パルティア国出身の安息氏の系統で、

そのためペルシャの血が王家に入るのを嫌った王族高氏が

広開土王を排除したがっていたようなのです。

不穏な空気を感じた広開土王は高句麗国内ではなく、

他国と縁を深め、いざという時の為に備えていたと考えられます。

そして政変が起き、婚姻関係を結んでいた

倭へ避難していたのかもしれません。

小高氏はその時に共に渡って来た親族であったかも。

 

また偽名という可能性もあります。

以前記事にした旭市倉橋の倉橋稲荷神社には

大和の吉野からきた蘇我氏縁の者が、

出自を隠すためか、後に「石毛姓」を名乗っています。

これは「石」=蘇我石川麻呂の石

「毛」=蘇我(小野)蝦夷(秦氏)

を表わしているのではないかと考察をしました。

小高氏ももしかしたら

「小」=小野妹子の小野(秦氏)

「高」=高市皇子の高

なのかもしれません。

 

上記のように秦氏である小野一族であったから

東国秦氏を頼って逃れてきたのかも。

簡単な考察をしましたが、「小高」にはもっと深い意味が

ありそうなんですよね。

次回はこの姓を冠した幾つかの神社をご紹介しつつ

小高姓の謎に迫りたいと思います。

 

 

では最後に境内のいろいろ~。

 

手水舎

井戸なのかな?

水が湧いていました

整然と並ぶ石碑

その傍らにある小さな石塔

神職の方のお墓かも