高市皇子を探して ①中滝城 いすみ市岬町中滝 | 未知の駅 總フサ

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千葉県=東国は蘇我氏に縁の地であったという痕跡を探し、伝承・神社・古墳など諸々を調べています。

百嶋神社考古学にご興味を持たれた方はブックマークの「新ひぼろぎ逍遥」さんを訪ねてみてください。

 

 

蘇我氏に纏わる伝承は

当時の都から遠く離れた房総に

なんでかかなり伝わっています。

土地の口承であったり、寺社の縁起であったり、

様々な形で残され、それは限られたエリアではなく

千葉県全体に散らばっています。

 

このことから私は東国は蘇我氏に縁のある地であったと

考えています。

 

なかでも有名なのは大友皇子伝説です。

2021年、君津市俵田にある白山神社に取材に行きました。

少しだけお話ししましたが、伝説にあるような無念の死を

遂げたとは思えない、落ち着かれた状態で、

すべてを悟られている印象でした。

運命を受け入れているというか、達観されているというか。

お話してみて、やはり王族の方だけあって

視野の広さとか肝の据わり方とか、違うなぁと感じました。

 

大友皇子に関しては、すでにいろいろなサイト様で

取り扱われていますし、戦死された方達を祀った神社に行くと

何が起こるかわからないので(マジで)

遠慮することにします(汗)

 

そして、もうお一人。

私がここ数年ずっと気になっていたのが、

高市皇子

です。

定説では天武天皇の皇子となっている方ですが、

真の父は蘇我赤兄であり、母は蘇我連子の娘・氷上皇女で

あったという説があります。

そのような方の伝承が、千葉県に点在して伝わっている事は、

古代の東国の真の姿を知るための手掛かりともなるのではと

私は感じています。

 

いつになく真剣に説明しておりますが、

実はもう高市皇子に関してはお蔵入りにしようかなぁと思ってました。

ホントにいろいろ感動的な事があったので、

感極まりすぎて、ちゃんと伝えたいことが書けないかもと

心配になったんですよね。

でも今回タイトルにもある新情報を目にして、

あー、これはやっぱり書けってことだなぁ

と感じましたし、占いでも「書け書け」と促されるような

診断ばかりでていたので着手する事にしました。

 

書かないでいようと思ったのは、少し闇にも触れる心配が

あるからなのですが、上の方達からの助言が

 

書いて大丈夫☆

 

だったので、全部書くことにします。

見てろよ!(笑)

 

「日本伝説叢書 上総の巻」の巻末には

「上総古城址一覧表」があります。

この書籍は数年前から手元にあったのですが、

例の寺の一件で回復しつつあった時に

いろいろ情報整理しとこうと思い立ち

ほぼ日手帳を数冊入手して項目ごとにまとめ始めた際

えっ!?

と二度見する情報を目にしました。

それがこちら、

 

名称 中瀧城

位置 夷隅郡中根村中瀧区

創築者 高市親王

摘要 「房総志料」に、『中瀧城址、中瀧寺(金胎山見性院

    中瀧寺)の前の山にあり。』と見える。 

    俚俗に、高市親王の居城とも言はれる。

    高市王及び同妃を葬りしところと言い伝えられる

    小高(千町村)の古墳(字堰屋にある)は、即ち、

    此高市親王を祀りしものであるということである。

 

 

んなぁにぃぃぃ~~~!!!!!

 

ずっと持っていた書籍だったのに

見落としていたのか忘れていたのか、

兎に角自分にショックでした(涙)

この新情報を確認すべく現地取材に行きたかったのですが

前回とんでもない目にあってますし今回の立地が

城址の側のお寺

という、前とほぼ同じ案件・・・

うーん、もしかしてこれは行こうとするだろう事を

わかっていた「守ってくれる誰か」が事前に

そういうトコ行くと、えらい目に会うで?という

警告をくれてたのかなぁと解釈し、

取材は断念して資料漁りに勤しみました。

 

という事で今回は資料中心となりますが、

おつきあいください♪

 

中滝城址

いすみ市岬町中滝字熊ノ山1821付近

 

中滝城(資料では滝の字が「瀧」なのですが

現在の地名は「滝」なので、

資料に「瀧」と書かれている以外は「滝」で統一します)を

発掘した記録「上総国・中滝城1」によると、

城址は中世城址との見解でした。

しかし同地から縄文~古墳時代の遺物が出土しており、

中滝寺裏山斜面には横穴墓が5基、

中滝城址のある熊ノ山南東の谷に4基発見されていて、

古代から人が住む土地であった事がわかっています。 

 

高市皇子に関しては「上総国司であった」という

伝承も残っているので、もしかしたら当地に館を

構えて住んでいた可能性もなくはないのです。

 

ちなみに麓にある中滝寺は縁起は書籍からは

探し出せなかったのですが、

「千葉県寺院明細帳」には

 

千葉県管下上総国夷隅郡中瀧村字谷

勢国寺末

曹洞宗 中瀧寺

本尊 釈迦如来

由緒 天長五戌申年弘法大師開創

 

とありました。

 

天長5年は828年です。

弘法大師空海さんは835年に亡くなっているので、

割と晩年に開基した寺です。

何故この地に寺を開いたのか、ですが

御本尊が釈迦如来という事に着目すると

その目的は

 

人々の心の救済

 

でしょうか。

城址の側の寺の目的ってやはり慰霊以外考えられません。

つまりは当地でそのような事をしなけらばならない

戦いがあったという事になります。

そんな戦いがあったのかどうかも、

今となってはまったくわからない状態ですが、

口承で伝えられていたように高市皇子が

関係しているのではないでしょうか。

 

当時政権は唐や新羅の人間の手に渡り、

対抗していた蘇我大王家はじめ古参の氏族は

生き残る道を模索していたと思います。

その中で子・孫を避難させる事もあったでしょう。

時代が下がってからも東国に逃避してきた

高い身分の方の伝承はたくさん残っていますしね。

 

しかし房総で命を散らしたという伝承の残る大友皇子のように

追手による戦いが「あった」のだと考えます。

中滝城址もその一つであった可能性は否めません。

そして経緯を把握していた空海さんが

房総を訪れた際に開基したのではないでしょうか。

 

また中滝寺は曹洞宗ですが空海さんの開基であれば

真言宗であるはずです。

宗派が違っているのはおそらく中滝寺が途中で

廃れた時期があったのでしょう。

もしかしたら寺号も中滝寺ではなかったかもしれません。

 

蘇我氏に纏わる伝承は背景を確認しようと調査しても

痕跡を消されてしまっている場合が多く、

現在伝わっているものは書物の中に

ひっそりと記されているものばかりです。

 

表に出なかったから現在まで残すことが

できたのだと思います。

それらに陽の目を当てるのが私の役目でもあり

多くの人に知ってもらう事が、

無念の想いを抱えていた方達の心を慰めることにも

繋がるのではないかと感じてます。

 

このシリーズも数回続く予定ですが、

おつきあいいただけると嬉しいです。