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写真は、ロックバンドのL'Arc~en~Ciel(ラルク)のライブ映像の雲が龍に見えたので、なぞってみました。
他のライブ映像にも龍の形の雲が写っています。
霊視はしていないので、単なる気のせいかもしれません。
hyde(ハイド)の声に癒されます。
☆
こんにちは。
引き続き、僕の不思議体験についてお話したいと思います。
☆ 初期の株式
僕が初めて株を買ったのは、おそらく、1960年代後半の小学校3年生です。
現在では、リモコンや家電にもマイクロコンピュータが組み込まれていますが、当時は、そんなものは一切無く、全て手で操作していました。
電話は、ダイヤル式、テレビのチャンネルもダイヤル式で、手でダイヤルを回す感じで、もちろん、携帯電話とかパソコンなどは存在しません。
株の情報というと、新聞とか、ブローカーからの話ぐらいしか、情報を得る事ができなかったと思います。
だから、普通の人は、株の事など何も知りません。
母はレストランを経営していたのですが、おそらく、株のブローカーが、お客に来て母をそそのかしたのだと思います。
母は、突然、僕がお年玉で貯めた3万円で複数の株の中から、どの株を選ぶかを、尋ねてきました。
☆ 両親
母は、年中無休で、夜遅くまで働く、体力の持ち主でしたが、考えて行動をするタイプでは無かったようです。
だから、お客に騙される事も多くありました。
レストラン経営は、父のアイデアで、当時は、ファミレスも無く、デパートの屋上にレストランが有るぐらいでしたので、父は常に斬新的な行動派でした。
しかし、両親とも異性にもてるタイプで、夫婦仲は悪く、養子だった父は、両目に結核菌が入り失明すると同時に、僕が6年生の時に、家を追い出される事になります。
その後、神戸の盲学校で鍼灸マッサージの資格を取り、岐阜に帰り、鍼灸院を成功させ、岐阜の中心地である伊奈波神社の前に、一億円で4階建ての治療院を建てます。
もともと、母は、女性としては珍しく、無口なタイプで僕との会話も、ほとんどありませんでした。
だから、思いつきの唐突な決定で、僕を困惑させる事が多くありました。
母が僕のためと思っての決断も、僕の意志を無視した、非常に理不尽な決断となり、僕は幼いころから、地獄を乗り越えるような体験をしていました。
☆ 幼少の地獄
例えば、小学校1〜2年生の担任に、「先生の思うように僕が行動できない」という理由で、頻繁に理科室の暗闇の倉庫に閉じ込められました。
幼い子供を一人、倉庫に鍵をかけて閉じ込めて放置するわけなので、今であれば犯罪です。
僕は、子供の頃は、大人しくて素直な性格で、物覚えも良かったのですが、幼くて、単に先生の理想の行動が取れなかっただけです。
先生の暴力に動じない僕に、人格を否定する言葉で罵倒しました。
例えばこんな感じです。
「あべ君はこのままだと複式に行く事になるけど良いのか?」
と、先生が僕に尋ねます。
本当の意味は違いますが、複式というのは、当時、全学年の中の知恵遅れの生徒が通っている教室です。
僕は、大人に言われて無意味に学校に通っているだけなので
「別にいいですよ」
と答えると、すかさず、先生がクラス全員に向かって、大声で
「あべ君は、複式に行っても良いんだって」
と、見下してバカにする感じで言いふらす感じです。
あるいは、僕を薄暗い理科室の倉庫に閉じ込めるのですが、ガイコツや人体模型などが、僕の遊び道具になってしまし、全く動じない僕を見て、こう言いました。
倉庫の奥には、劇薬を保管する鉄の扉があったのですが、その扉を指さして、
「あそこの奥が複式だけと、あべくんは、本当に複式に行くのか?」
と、僕をおどします。
僕は、子供ですが、それが嘘であることは、理解していて、一応「別に良いですよ?」と、答えてあげました。
担任の先生は、相当、複式の生徒を見下していたのだと思います。
スピリチュアル的に言うと、レベルの高い神に近い魂が、障害を選んで生まれてくると言われているので、社会的底辺の人間を見下すと神を見下すことになるので、注意が必要です。
当時はIQテストが行われていて、僕は勉強など全くしなくてもIQは高かったので、先生の言う通りにはいきませんでしたが。
当時はIQテストが行われていて、僕は勉強など全くしなくてもIQは高かったので、先生の言う通りにはいきませんでしたが。
僕は、非常におとなしく、素直な性格で、決して、言うことを聞かない悪ガキではありません。
後でわかったのですが、母親は、担任の先生に金品を渡して、お願いしていたようで、全てを先生任せにしていたようです。
だから、先生は僕に対しては、特に厳しく接していて、僕は幼い頃より全く恐怖を感じない子供だったので、恐怖の与え方もエスカレートしたかと思います。
また、母は、担任の先生から小学校の入学時は「名前がひらがなで書けるだけて良い」と聞き、母は僕をその通りにしたと、僕が高校生の時に話していました。
もっとも、ひらがなの名前の書き方を練習したのは、入学前に地面に木の枝で書きながら、近所の女の子に教えてもらっていたので、実際は、母は、名前も正確に書けるようにはしてくれませんでした。
保育園の頃も、朝、起きるまで放っておかれ、自然に起きたら保育園に行くように言われる感じで、時間を守るとかそういう事は、全く考えた事がありませんでした。
昔は、自分で保育園まで行って、自分で帰宅していました。
もちろん、保育園にも登園時間というものがあったと思いますが、みんなが行事を行っている中に、のこのこと自分一人が、そこに入っていくという、僕の家庭環境は、特に変だったかと思います。
保育園の保母さんも恐ろしいおばさんだったし、実際、何の魅力もありませんでした。
☆ 素直な性格が仇となる
先生が暴力を振るう理由は、忘れ物をしたとか、そういった些細な、できない事に対する怒りのような理由かと思いますが、僕は早生まれて幼く、こういった事ができる能力が、そもそも無かったのです。
当時は、今のように連絡のプリント等は無く、生徒が自力で、予定をメモして、用意をする仕組みでした。
先生が「ひらがなの読み書きは不要」と親に指導しておきながら、予定を自分で書かなくてはいけないという、矛盾した状況に、追い込まれました。
そもそも、小学校など、大人に言われて行っているだけで、なんでそんな所にいるのかも、わけが分からず通学しているわけです。
やる気とかという以前に、学校の意味や、問題を克服するという、当たり前な事を考える選択も、年齢が幼すぎてありません。
「学校は勉強をしに行くところだと知っていた」という人は、自分で考えたわけでは無くて、そのように幼稚園や家庭で教わっていたからかと思います。
担任の先生は音楽を専攻する学歴がある秀才の先生だったようで、おそらく、良い家柄で、物心つく前から教育を受けていて、自分の子供の頃にできる事を基準にしていたのかもしれません。
普通は、6歳位の子供であれば、親が、忘れ物などをチェックして、子供に忘れ物に気をつけるように教えるのが普通かと思います。
先生が、「入学時は名前を書けるだけて良い」と言ったのは、おそらく、先生は自分の授業に自身があり、子供を教育できる自信があったのだと思います。
だから、自分の授業についてこれない僕は、脳に障害がある知恵遅れと判断したのでしょう。
しかし、そもそも、先生の授業を聞くための下地は、家庭の教育があって、初めて成立するかと思います。
学校の先生が、生徒一人一人、個性に合わせて、ひらがなやカタカナを教えて、理解できない部分を調べて、覚えるまで付き合う事など、量的にも不可能であり、それができるのが、家庭教育です。
植物で言えば、最初の種を蒔くようなもので、最初の発芽ができれば、後は自分で成長も可能でしょう。
しかし、僕は、最初の学びのきっかけという、種を蒔いてもらえずに、全く無意味で不毛な、学校生活を送る事になります。
現在の少子化で、一クラスに担任が複数つくような環境であればわかりませんが、当時の一クラス40人に担任一人という、カリュキュラムをこなすだけの授業で、子供を教育できる等ありえないかと思います。
一年生の時は、300点テストという長いテストがあり、「ひらがなをカタカナになおしなさい」といった問題が永遠と続きますが、そもそも、僕は、カタカナの存在を知りませんでした。
6歳のときにカタカナが書けるかどうかのテストで、人格を徹底的に否定され、立ち直れなくされた訳です。
結局、カタカナが完全に書けるようになったのは、18歳で、当時の3億円のコンピュターが打ち出せる文字が、アルファベットと数字とカタカナだけだったので、カタカナが必要になって使ったというだけです。
別に勉強して覚えるまでもなく、必要で使っていただけですが。
僕は、先生と母の指導の結果、連絡用の黒板の字も教科書も読めなくて、正に、学校に行って、恐怖の先生におびえながら時間を過ごし、帰宅するという、全く無意味な学校生活を送っていました。
僕が、他の子供のように泣き叫べば良かったのですが、恐怖心が薄く、全く心が無いような子供だったと思います。
先生は、僕が何故できないかを考える事なく、ただ、暴力で言うことをきかすように、考えたのだと思います。
僕は、親からも先生からも何も教えてもらえないまま、ただただ、恐怖の日々を過ごしていて、学校に対する恐怖や人間に対する不信と「自分は最低の人間だ」という強いコンプレックスを6歳のときに植え付けられました。
幼い頃の体験は、催眠の暗示のように、深く無意識レベルに刻まれるため、一生、そこから抜け出すことが難しくなります。
戦争時代の影響もあるかもしれませんが、昔の学校の先生は、教育者では無く、決められた授業のカリュキュラムをこなし、テストで生徒を評価するという、ベルトコンベアーの部品を良品か?不良品か?を選別するように、子供を査定するルーチンをこなしているだけかと思います。
国の命令を聞くのが良品で良い子。
命令が聞けないのが不良という事です。
戦争中であれば、良い子と言うのは、権力者の奴隷となって、戦争のために命を捧げると言う事になるのですが。
優等生に言わせれば、高評価をつけてくれた恩師と言う事になります。
しかし、低評価のレッテルを貼られた不良から見れば、先生は人間のクズであり、そもそも、学校の勉強ができないぐらいで、子供の人格を否定するような権利など、先生には無いのです。
不良が、先生や大人をバカにするというのは、不良に対して幼い頃から、先生や大人が自分の本性である醜い部分で接して来たので、先生や大人の本性を知っていると言う事で、教育者の実態と言う事です。
☆ スピリチュアル的な観点
僕は、5000年前に地球に生まれて、何回も輪廻して、多くの経験や修行を積んできました。
スピリチュアル的には、運命とか苦難と言うのは、自分で作った課題なので、他人はその状況を作るための設定に過ぎません。
圧倒的な能力やパワーで制圧するという「力まかせ」という行為は、極めて安易な選択かと思います。
ゲームのラスボスを、レベル1で倒すより、レベル99で倒した方が楽です。
僕の小学校の1〜2年生の体験は、自分が幼くて何の対策も抵抗もできない状態で、国の教育政策や親や先生等の大人たちより暴力を振るわれると言う状態で、自分の精神力が試されたかと思います。
ある時、理科室の暗闇の倉庫に、同級生の悪ガキが、僕と一緒に閉じ込められた事がありました。
冷静な僕に対して、その同級生は、火がついたように泣き叫び、僕は、その子を可哀想に思い、倉庫の鍵を、中から開けて、外へ逃してあげました。
この時に、自分の感覚が、他の子どもたちと違うことに気づきました。
僕は、横に幽霊がいても、グッスリ眠ることができるタイプで、この時期に、その片鱗が見えていたようです。
僕は、幼い頃より、IQが高く、知恵の輪が得意で、簡単な鍵であれば、その時に自分で仕組みを考えて、開ける事ができたのです。
ある意味、「テストは名前を書くだけで良い」と言う、担任の先生の指導や、親の意見を素直に聞いて守っている、極めて素直だったと言う事です。
だから、幼なじみのお母さんは、子供の事をよく見ている人で、僕の長所を「すごい素直なので好き」と、褒めていました。
☆ 味方は時間
結果的に言うと、味方は時間であり、時間が解決してくれたと言う事でしょう。
黙って見ていれば、やがて問題が通り過ぎて行くと言う事です。
貧困や戦争などに殺されるという肉体の死が、問題を解決するという事もあるかと思いますし、死ねば楽になると思います。
だからといって、自殺は味方の時間をも手放す行為なので、自殺により永遠の苦しみの状態に陥るため、生きるという希望は最後まで手放してはいけません。
☆ 昔の子供は勉強ができなくても自立していた
僕の時代は、小学校の高学年になると、石炭ストーブの、火の管理を子供がしていました。
朝、当番が学校の裏から、石炭を運び、ストーブに入れて火をつけて、帰りに石炭の灰を集めて、捨てるという事をしていて、先生は関与しませんでした。
石炭に直接火をつけれないので、最初に火をつけやすい紙に火をつけて、薪、コークス、石炭の順番にストーブに入れていきます。
今では考えられないような、火薬を使ったイタズラもしたりして、昔は、そういった自由さもありました。
昔の花火も、今より大きな爆竹とか、2B弾と言う、かなり危険なものも駄菓子屋に売っていて、崖を登ったりとか、命がけの遊びとかも、普通にしていたかと思います。
夏休みは毎日川で泳いでいて、台風のときに川で泳いだ事もあり、川で溺れるなどありえないし、溺れるなど考えていませんでした。
一人、同級生が川で亡くなったのですが、持病の心不全でした。
かなり危険な事をしていましたが、子供の頃から、火の始末や刃物を使い慣れていたので、それで大きな事故になる事はありませんでした。
もちろん、何回も危険な目に合って、身にしみて反省しますが。
僕も、仲良くしていた、クロネコの「チビ」に、プロレスの技をかけて、そのクロネコが3日ぐらい動けなくなった事がありました。
当時は、野球の巨人のミスターが現役で、プロレスでは、ジャイアント馬場やアントニオ猪木が全盛で、大変な人気がありました。
プロレス技で、相手の両足を脇に抱えて、回転して、遠心力で、相手を遠くまで投げるという大車輪という技が人気がありました。
アニメのタイガーマスクでは、大車輪で相手を振り回し、コーナーの鉄柱に頭をぶち当てるという技になっていましたが、もちろん、現実的にそんな事をすれば犯罪となります。
僕は、大車輪の真似をして、猫の「ちび」の両手を持って、自分が回転して、「ちび」の手を放すと、加減をしたつもりですが、タンスにぶち当たり、動けなくなってしまいました。
「ちび」は、すごく好きな猫だったので、その猫が動けなくなった事で、自分の心がすごく傷つき、3日間、餌を運ぶなど看病をして、その反省で、動物に暴力をふるう事をしなくなりました。
「ちび」は、僕を子供のように思っていたらしく、朝起きると、よく僕の枕の横に、捕まえたネズミが置いてありました。
「ちび」は頭が良く波乱の生涯を送りましたが、僕が高校のときに亡くなり、初めて「ペットロス」を体験しました。
子供の頃は、力加減が分からないので、相手を傷つけてしまうのですが、体験が無く、その結果の予測ができないのが原因です。
力が無い幼いころより失敗をしていればケガも無く、その失敗の繰り返しが、自立を促すかと思います。
しかし、失敗をしないまま成長してから、いきなり失敗をすると、大事故になる可能性があります。
「そんな事を言って何かあったら誰が責任を取るのだ?」と、最近はすぐに責任の押しつけの問題になり、何もできなくなり、子供も自立できなくなっているような風潮になっているのかもしれません。
ちなみに、小学校3年生で、担任の先生は優しい女性の先生になり、地獄から天国に行った気分です。
ただ、学歴社会からは、保育園の頃より、完全にドロップアウトして、学歴社会に乗る事は、一生できませんでした。
☆ 株の選択
株の話に戻りますが、そもそも、子供の持っているお金で株を買うという母親の考えは、かなり非常識ですが、その時の母には買う選択しかありませんでした。
選択肢としては、どの株を買うかというもので、当然、僕もわけがわからず、母の言いなりになりました。
その時、僕はニッスイの株を僕の持ち金すべての3万円分買うと母に告げました。
単に、カタカナのニッスイという名前が読みやすくコマーシャルなどで名前を知っていたぐらいの理由だったと思います。
しばらくして、母は、3万円だったニッスイの株が7万円になったと僕に話してきました。
しかし、おばさん(母の妹)からの情報によると母が買った50万円の株が、かなり、暴落したらしく、何の相談もありませんでしたが、僕のお年玉が手元に戻ってくることは、ありませんでした。
その後、僕の名義の通帳には不思議とお金が貯まるといって僕の銀行通帳は母のものとなりました。
現在は、銀行の口座を作るにも、身元を証明しなければいけませんが、当時は、架空の名義で銀行口座が開設できた時代です。
その後も、僕が成長して、学校の入学金が必要な時などは、偶然にタイミングよくお金が用意できる状態になっていると、母はよく驚いていました。
そのように驚くというのは、僕の進学の援助などの計画は無かったという事ですが。
学校を卒業してから、僕は親からの何の援助もなく、夜のバイトで自分で貯めた15万円のお金を持って東京に上京しました。
母は、僕が、初任給をもらうまでの間、東京で食べていけるのかなど、全く気にもしませんでした。
僕の家族は、一人一人が独立して、会話による関わりや協力が無く、一家離散型の家族です。
しかし、家族全員が過酷な運命を背負っていて、それを自力で乗り越える力がある感じです。
今から考えると、家族間の会話が無いという事が、僕に自由な考えを与えてくれて良かったと思います。
道徳や常識、学校教育というものは自由な思考や、超能力を封印する最も大きな洗脳です。
☆ 熱帯魚
株の件の翌年ぐらいの頃、今度は僕のお年玉で、父が熱帯魚を飼うと言いだしました。
当時の熱帯魚は、全て南米の熱帯雨林であるアマゾンから輸入していて、非常に珍しく、非常に高価でした。
現在の熱帯魚のほとんどは、東南アジアで養殖しているため安価です。
母は、自分の事(株の件)を棚に上げて、
「子供のお金を勝手に使うなんて」
と、父をすごく怒りました。
しかし、それがきっかけで、熱帯魚が僕の趣味になり、かなり楽しい思いをしました。
また、水槽の扱いが得意になった事で、いろいろな水生生物への興味も広がりました。
魚の排泄物は見えないバクテリアが分解してくれるので水槽内の水をきれいに保つことができると小学校の時に知っていました。
いわゆる、今で言うパイオテクノロジーです。
当時は、経済の高度成長時代で、企業が水銀や鉛、六価クロム、カドニュウムなどの毒物を川や海に垂れ流し、川を下水道代わりにした時代です。
糞便などの生活排水や、有毒な工業廃水が海底に溜まり、公害やヘドロという言葉が生まれました。
映画では海洋の放射能汚染からゴジラが誕生しました。
人間の知恵と科学を万能と信じ、一般社会でバクテリアや微生物の力など考える事ができない時代です。
僕は、学校の授業を全く聞いていないし、教科書を読んだこともなく、勉強をしたことが無い子供でした。
そもそも、テストのために勉強をするという行為を知らずに育ち、高校受験のときに、初めて、テスト勉強の存在を知った感じです。
しかし、幼いころから自分で図鑑などを見て、子供ながらに、いろいろ実験をして研究していました。
父は、独断ながら、僕のお年玉を非常に有意義に使ってくれたと思います。
☆ 新しい物好きな父
うちのレストランには、日産の最高級車のクラウンが100万円だった時に200万円もした電子レンジやジュークボックスやカラーテレビなど、当時、非常に珍しい高額な電化製品があったにもかかわらず、子供のお年玉をあてにするなんて変な話でした。
世の中に初めて販売される新技術の電化製品は、非常に高額で、初期の電子レンジの値段が高級車の2倍の金額だったわけです。
また、カラーテレビも当時は珍しく、1964年東京オリンピックをカラーテレビで見ようと、お客さんが道路まであふれかえりました。
ジュークボックスというのは流行のレコード盤が100枚ほど内蔵され、お金を入れて、番号のスイッチを押すと指定されたレコードがかかるという機械で、コンピューターが無い時代に非常に巧みな珍しい機械でした。
コンピュータを使わない、機械仕掛けの機械としては、最高技術ではないかと思います。
そして、ジュークボックス1台で従業員1人の給料を稼ぎ出す稼ぎ頭でもありました。
☆ 霊能者の親友
僕は高校を卒業した後、名古屋のコンピューターの専門学校に2年通いました。
当時はコンピュータが社会一般には存在していなくて、コンピュータ学校などは世間には知られていませんでした。
僕は学歴社会に乗れず、将来の目標が無かったのですが、親友のSW君からの情報で、コンピュータの学校に入学する事になりました。
その親友のSW君は、高校一年のときに、たまたま隣の席にいた事がきっかけで、毎日、つるむようになりました。
SW君は、信長の義父である斎藤道三で有名な岐阜の中心地である伊奈波中学の生徒会長で、裏の番長で、岐阜県の代表として年に一人表彰される健康優良児という肩書を持っている、とんでもない友達でした。
しかも、初代のジャニーズの江木俊夫さんににて、女の子にもてていました。
落ちこぼれの僕などは、健康優良児の存在すら知りません。
また、SW君は、当時としては珍しくロックバンドを組んでいて、多少の作曲もできてベースを弾いていました。
僕の小学校の1~2年の恐怖の担任が、音楽を専攻する先生で、小学校の鼓笛隊などを指導していたため、僕は、音楽についても恐怖の感情を持っていました。
僕はSW君の影響で、創設期のヘビメタであるディープパープル、レッドツェッペリン、クイーンなどのロックバンドを知る事になります。
演歌や軍歌しか無かったような時代に、イギリスのロックバンドであるビートルズが来日し、多くの人がカルチャーショックを受け、日本にビートルズなどの洋楽が広まりました。
その次の波が、ディープパープル、レッドツェッペリン、クイーンなどで、現在の日本のバンドの基礎を作りました。
SW君の影響で、音楽への興味を取り戻す事ができ、また、幼馴染の女の子の影響で、矢沢永吉や荒井由実を知りました。
アイドルは、天地真理や山口百恵などの初期のアイドルで、当時は、まだサザンは存在しません。
現在は、僕は、初期のバンドの香りがする、L’Arc-en-Ciel(ラルク)のファンで、Hydeの声が好きで、ラルクは龍神系のような感じがします。
僕は、現代の繊細な歌詞は、あまり好きとは言えないようです。
その点、ラルクのような粗削りで、運命に委ねるような、捨て身のような歌詞が、何故か心に訴えるものを感じます。
5000年間の輪廻で、人類の戦争に巻き込まれ、捨て身で生きてきたからかもしれません。
戦争では、繊細な心など許されません。
何の長所も無い僕に対して、SW君は何もかもが優れていて、なぜ、SW君が僕と毎日つるむようになったか不思議です。
SW君の父親は、超能力の予知能力が認められて、宗教の宣教師の高い地位を持っていて、SW君も霊能力を少し受け継いでいるようでした。
SW君の家は、山のふもとに建っていて、その山の上に、父親が管理する教会があると話していましたが、僕は招かれざる者のような気がして、そこに行った事はありませんでした。
また、SW君の部屋の山側の窓が、いつも雨戸が閉めてあり、その窓の外に幽霊がいるので、開けられないと、SW君は話していました。
その頃は、あまり関わってはいけないような気がして、あまり立ち入りませんでした。
また、SW君の、父親の兄弟がヤクザの組長で、母親の兄弟が警察の幹部と言う、不思議な家庭環境でした。
SW君が、生徒会長と言う表の顔と、裏の番長という裏の顔を持っていたのは、おじさんたちの血筋を引き継いでいたのかもしれません。
☆ 専門学校
SW君に教えられて、名古屋電子計算機専門学校の入試を受けました。
入学試験は義務教育の学力は問われませんでした。
知能検査のようなコンピュータの適性検査だけでしたので、優秀な成績で入学することができました。
僕のIQは、140程度かと思います。
この程度のIQだと、ほとんどの人が不可能なような仕事ができて、企業の業績を牽引するレベルの知能はありますが、世界には到底及ばない事が理解できるレベルかと思います。
世界にはIQ300以上の人間がざらにいるので、その世界がある事が実感できるのがIQ140の世界かと思います。
ちなみに、今は少子化で変わったかと思いますが、昔の非常に子供が多い受験戦争と言われた時代の東京大学の学生のIQの平均が140位だそうです。
超能力の世界でも、高い超能力者は、UFOに乗っているよう5次元の超能力者とコンタクトが取れるので、自分の能力の未熟さが理解できます。
能力が高ければ高いほど、その先の能力者のいる事が実感できるのが、スピリチュアルの世界です。
しかし、何の超能力も無ければ、自分だけの世界で、自分が最高の存在と信じる事ができます。
☆ 名古屋の喫茶店
僕は、高校の時も専門学校の時も常に不良仲間とつるんでいました。
ある時、同じクラスの魅力的な女子を誘って名古屋の地下街の喫茶店に行きました。
すると、その喫茶店でオーダーを取りに来たウエーターが、同じクラスの不良仲間でした。
名古屋の地下街は非常に広く、喫茶店のメッカと言えば名古屋で、非常に沢山の喫茶店があるのに、めぐりあわせとは、不思議なものです。
その後、その悪友に
「(ナンパの事を)みんなにばらすぞ」と、脅されることになります。
もちろん、みんなに言いふらされても、何の害もないのですが、そういわれると、逆らえなくなるのが青春というものです。
ただし、この時ナンパした女性を、学校の担任の先生が目をつけていて、その事で、僕の就職などに悪影響を及ぼす事となり、苦難な道を歩む事となります。
☆ スキーツアー
ある時、不良仲間がスキーに行く計画をしていました。
しかし、例のウエイターをしていた悪友が、急用でスキーに行けなくなりました。
そこで、お金はもう払っているので、代わりにスキーに行ってほしいと、僕に言ってきました。
僕は、彼の代わりに無料でスキーに行けるという、非常にありがたい誘いなのです。
しかし、僕は、寒さが特に苦手で、お金をもらってでもスキーに行く事なんて考えられませんでした。
スキーが嫌いではなく、寒い場所が、心底嫌いなのです。
しかし、ウエーターの悪友は、ナンパの件で僕の弱みを握っていました。
そして、しぶしぶ僕はスキーのツアーに参加しました。
☆ インベーダーゲーム
すし詰めの夜行バスでスキー場につくと、その時は、積雪量が特に少なく、スケート場のように雪がアイスバーンになっていました。
リフトで2回ほど山の上まで行きましたが崖の前のカーブが怖くて、結局、2回滑っただけでスキーはやめました。
しかたなく、ロッジで時間をつぶすことにしました。
ロッジでは、当時、まだ有名ではなかったインベーダーゲームがあり、僕は、すっかりインベーダーゲームのとりこになりました。
しかし、この時代は家庭用のゲーム機など無く、世界初のコンピューター・シューティングゲームがインベーダーゲームです。
帰宅後、すぐに、母にインベーダーゲームを買って店に置くように言いました。
僕を福の神的に思っていた母は、常に僕の話に耳を傾けていました。
その頃は、レストランを改築し、洋食も作る喫茶店にしていたので、すぐにインベーダゲームを導入しました。
その頃のインベーダーゲームは喫茶店のテーブルがゲーム画面になっているタイプで1台50万円程度しました。
専門学校にあった大型コンピュータは、現役を引退した前の世代のもので、メインメモリー24KB(キロバイト)で、3億円もする非常に高価なものでした。
大きさも20畳ぐらいの専門ルームが必要で、温度管理等も18度に保つという感じで厳格でした。
そのレベルのコンピュータが、国防等の、最先端の防衛を担っていました。
3億円もする少し前の大型コンピュータよりも、50万円のテーブルのゲーム機の方が性能は高い感じで、凄まじい進歩かと思います。
インベーダーゲームを自宅に導入すると、すぐに売り上げが上がり、インベーダーゲーム1台で、1日1万円、月に30万円、年間360万円の売り上げが上がりました。
家の喫茶店の周りには、他の喫茶店はありませんでしたし、インベーダーゲームブームは数年間続きました。
しかも、ランニングコストは、電気代程度です。
うわさによると、最高のブームの時の駅前のゲームセンターなどでは、インベーダーゲーム1台で1日10万円もの利益を得たという事です。
僕が通っていた、コンピューターの専門学校の月謝は、2年間で80万円だったので、ゲーム機代も僕の学費も合わせた130万円は、半年以内に元が取れる勘定です。
また、僕は、学校が休みの日などは、従業員2人分ぐらいの仕事を一人でこなす働き手でした。
この10年後に家庭用のファミリーコンピュータであるファミコンがスパーマリオを引き連れて発売されます。
その当時でも、極めて性能が低いパソコンが100万円もする時代でしたので、ゲーム用のファミリーコンピューターが2万円以下で購入できるなど、画期的な事でした。
☆ 東京に上京する
コンピューターの専門学校を卒業し、東京の小さな企業に僕は就職しました。
当時は、インターネット等は存在してなくて、業務用のコンピューターの値段が数千万円から数億円もしたため、コンピューター開発にかかる投資資金も莫大です。
よって、コンピューター開発の中心は東京にありました。
現在は、インターネットも普及し、コンピューターも子供の小遣い程度で購入できるようになったため、才能さえあれば、子供でも誰でもが、プログラム開発が可能な時代です。
僕は長男で実家から離れる考えはありませんでした。
したがって、実家から通える名古屋の企業に就職したのですが、企業の都合で、突然、東京勤務となったわけです。
この事がきっかけで、当時付き合っていた彼女と別れる事になり、胸が引き裂かれる思いを経験しました。
また、子供のころから会話は無かったのですが、母は僕の上京について何の感情も意見も無いようでした。
☆ 殺人ラッシュ
その企業でも、僕はすぐに利益を出し、その企業は急成長していきました。
しかし、僕の私生活は、非常に苦難に満ちていました。
会社の寮は、本社がある鎌倉にあり、勤務先の東京の港区まで、殺人ラッシュ通勤に片道2時間さらされました。
寮も、何もない6畳に二人を放り込む的な感じです。
通勤で使っていた東海道線は、日本一の乗車率で、背骨が折れるかと思うぐらい押され、帰宅時は、泥酔いのサラリーマンで溢れます。
しかも、残業が月に100時間を超え、体を酷使し、どれだけ頑張っても月に10万円程度しかもらえませんでした。
ハワイ旅行が一人100万円もして、100円ショップも無い時代なので、現在より物価が安いともいえません。
今は、週休2日ですが、当時は休みは日曜日だけで、土曜日も働いていたので、その上の残業です。
水島にな
今は、週休2日ですが、当時は休みは日曜日だけで、土曜日も働いていたので、その上の残業です。
水島にな
当時の水準でも国が定める最低賃金に満たない額で、どれだけ能力を発揮して、莫大な収益を上げても、将来の見通しが立たない状態でした。
会社は、僕より学歴の高い人材をどんどん就職させ人員を増やそうとしました。
しかし、学歴では、コンピュータで稼ぐことはできず、ますます、僕の負担は増えました。
そして、僕は体調を著しく崩し、その後、30年間の難病の苦しみを味わう事になったのです。
もちろん、僕の退職により稼ぎ頭を無くした会社は、すぐに業績が悪化し、倒産しました。
利益が経営者の慢心や傲慢さを生み、目先の更なる拡張や増収を目指し、自ら滅亡するというパターンではないかと思います。
その後、日本の最先端技術を担う会社にスカウトされ、やはり、知能テストを受けて入社しますが、すでに体調を著しく崩していて精神も病んでいたので、しばらく働いた後、プログラムの道は断念する事を決意します。
☆ 離婚
難病で苦しむ中、35歳の時、
「溺れる者はワラをもつかむ」
心境で、創価学会に入信しました。
5年ほどの仏道修行の後、日蓮からのメッセージで、合気道に入門しました。
すると、たった一週間で15年苦しんだ難病の症状が消えました。
この時に、何か人知を超える世界がある事を初めて実感します。
しかし、妻との関係が悪化し離婚となり、創価学会も合気道も辞めてしまい、また、難病の症状が再発し悪化しました。
当時、僕は妻が一人っ子ということもあり神奈川にある妻の実家(持ち家の一軒家)に住んでいました。
共稼ぎでしたが、僕のキャッシュカードを妻が持っていたので、妻は二人分の給料を管理し、年収1000万以上を手にしていました。
また、妻の両親共、高額な厚生年金をもらっていたので、生活費としては、ほとんど負担がありません。
しかも、僕のおこずかいは月3万円でだけです。
当然、離婚のときは、妻が管理していた資産や預金は、びた一文、僕に戻る事はありませんでした。
僕自身は裕福にはなりませんが、僕に関わる周りの人たちが、常に裕福になるようで、間接的に僕自身はお金に困った事がありませんでした。
ただし、財は悪魔も呼ぶので、財を得た時の自己管理ができないと、財によって滅ぼされる事になります。
☆ ライブドア事件
離婚後も、僕は、法外な高額な養育費を払っていましたが、理由は子供が大切だったからです。
しかし、離婚後、直ぐに現在の妻と運命的な出会いがあり、やはり、守護霊に導かれているように感じました。
また、ある程度の自由なお金を手にした僕は、当時の流行に乗ってインターネットによる株式投資を始めました。
丁度、インターネットが普及し、自宅で株の取引ができるようになった時代ですが、FXの為替はまだありませんでした。
子供のころの株の経験があり、変な自信を持っていたのが、仇となりました。
当時は、バブル期の景気を持ち直し、ある程度、株式も好調でした。
当時、占い師の細木数子ブームがあり、クリームシチューが司会をする、細木数子のレギュラー番組がありました。
有名人をゲストに呼び、細木数子が占いをするという企画です。
2006年年始の特番だったと思いますが、細木数子がホリエモンを占った際、
「ライブドア株は8倍になる」
と、話していました。
後で調べると「5倍になる」という発言は、何回もしていたようでした。
僕は、ライブドア株のような仕手株(プロが操る株)は絶対に買わないと、心に決めていました。
しかし、その時は、なぜか細木数子の話に乗りライブドア株を購入してしまいました。
魔が差したとはこの事です。
この時は、ライブドア株は、全く動きがありませんでした。
そして、その1週間後、テレビの画面に赤い点滅(首都高を走るパトカー)が光っていて、なぜか気になりました。
何の事件だろうと思い字幕を見ると
「ホリエモン逮捕」
の文字が・・・
この時は、本当にジェットコースターで急降下する感覚に襲われました。
1日で100万円ほど損しました。
素人の僕にとっては、大変な金額です。
信用取引では、一部の株が倒産のような事件に合うと、共倒れになってしまいます。
なぜ、ライブドア事件の直前に、こういう情報に出会い不本意に誘導されてしまったのか?
この後、株取引は辞めたので、後のリーマンショックに巻き込まれる事は避けられたのが、せめてもの慰めです。
この事が反省となり、僕はもう一度、創価学会に入信し、さらなる不思議な体験をする事になります。
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★★★ FIN ★★★