014 合気道とは?( 2/2 ) | ブルーグッピーのスピリチュアリティ:自由に!無理なく!楽しく行う超能力開発。

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前の記事からの続きです。

☆ 「合気道とは?」の2話目

 

☆ 植芝盛平の生い立ち


植芝盛平は、明治16年12月14日、和歌山県(現在の田辺市元町)に生まれる。

多くの偉人や超人と謳われる人々の例にもれず、盛平も虚弱で神経過敏な幼年時代を過ごす。

いつも部屋にこもって、本を読んでいるような子だったという。

7才のころ近くの私塾で、四書五経を学んでいたが、このころは、どちらかというと物理や数学の本を好んだ。

が、同時に密教の修行に興味を示した。

小学校を卒業すると田辺中学校に入学。

しかし、わずか1年で中退し珠算の塾に入る。

ここでは、1年足らずで代教をつとめたという。

珠算塾を出た盛平は、乞われて税務署に勤めた。

しかし、明治34年、単身上京し、文具の仕入れ販売を手がけた。

このころ、盛平は起倒流という柔術を習い始める。

ところが、ひどい脚気(かっけ)にかかり、帰郷を決意する。

このころには商売は順調に伸び「植芝商会」の看板も掲げていたが、全てを従業員たちに譲ってしまった。

物への執着がない盛平らしい行動だった。

日露戦争の前年、明治36年に盛平は徴兵検査に合格し、大阪の師団に入営。

身長の合格最低基準の5尺2寸(約157cm)に5分不足のため、1度は落とされたものの再志願で合格したのだった。

この4年間の入隊中、外出日には後藤派柳生流を学び、免許を得た。

23才で軍隊を除隊した盛平は、故郷に戻り農耕に従事する。

が、何かしら満たされぬ思いが募る。

深夜に突如はね起きて、井戸端で頭から冷水をかぶったり、終日一人で室内にこもって祈祷にふけったり、深山にこもって断食を行ったりした。

一方、田辺在住の博物学者・南方(みなみかた)熊楠(くまくす)が政府の神社合祀策(地方中小神社の統合整理)に反対して立ち上がると、盛平はそれに共鳴して運動を推進。

県庁に押しかけて知事と交渉したり、国会に請願書を提出したりして活躍したという。

幼少期の虚弱さをすでに克服して、ありあまるエネルギーの行き先を何に向けるべきか計りかねていた盛平は、傍から見ていると凶器じみて見えた。

父の与六は、そんな盛平のために、自宅前の納屋を改造して道場を与えた。

たまたま関西方面から田辺にきていた、柔道家の高木喜代市(後の講道館九段)に柔道の指導を依頼した。

与六のねらいは功を奏し、盛平は柔道の稽古に励んだ。

合気道という全く新しい武道が誕生するためには「大東流柔術」が必要であった。


さらに、術から道へ昇華するには、大本教の出口王仁三郎(デグチ オニサブロウ)との邂逅(かいこう:めぐりあうこと)を待たねばならなかった。

大東流も王仁三郎も、盛平が出会うのは、彼が紀州団体を結成して、北海道開拓移住民として白滝村に入植してからである。

明治45年つまり大正元年、盛平は北海道に渡り、不毛の原野の開墾(かいこん)に着手した。

2年間の大不作にもめげず、ハッカ耕作など、盛平の着想企画に基いた労働によって定住のめどがつき、盛平は「白滝王」と呼ばれ尊敬されるようになる。 


☆ 剣客 武田惣角(タケダ ソウカク)との出会い

盛平が、大東流の武田惣角と会ったのは、白滝村移住が軌道に乗ってきたころ起きた山火事によって白滝村が全焼してしまい、その再建を進めている時だった。

久田という旅館に、奇怪な剣客風の男が泊まっている事を聞きつけて盛平は会いに行く。

その男は自分よりも小さかった。

「わしは、武田惣角といって、甲州流の軍学に通じ、大東流の達人じゃ」

と、その男は語ったが、歯が無いため明晰(めいせき)ではなかった。

盛平は、すぐに試合を申し入れて立ち合ったが、かなわない。

すぐに弟子入りして、一ヶ月ほど自分も久田旅館に宿泊して技を学んだ。

その後も、盛平は白滝に惣角の新邸を建てたり、生活費を面倒見たり、炊事をしたり、肩もみをしたりと尽くした。

惣角は、盛平の作った食事でないと「毒が入ってる」といって、怒って投げつけたという。

将棋の相手もさせられたが、そのとき惣角の口から出ることは、人を殺した話ばかりだった。

大雪のある晩、盛平が将棋の相手をしていると、表のガラス戸をあけて、外套(がいとう:防寒、防雨のための上着)を着たままの客が入ってきた。

惣角は、いきなり片手で将棋盤をつかみ、その客に投げつけ、倒れた客に飛び掛って、さんざん殴った。

客は血だらけになって正気を失った。

その後、風呂で惣角は、盛平に背中を流してもらいながら


「敵かと思った・・・」


と、つぶやいたという。

また、その夜、盛平がそばで寝ていると、惣角がフトンの中から愛刀を持って起き上がり「おのれ!」と叫びながら大吹雪の外へ飛び出した。

戻ってきた惣角は、


「わしの殺したやつの声が聞こえたのじゃ」


といった。

盛平は思った。

武道が、もし人を殺すことを目的とするのであれば、行き着くところは地獄だ。

殺人剣を転じて、活人剣とせねばならない。


☆ 聖師 出口王仁三郎との出会い

盛平は、危篤状態の父の回復を願いながら、列車に乗っていた。

大正8年12月、父76才、盛平は36才になったばかりの事だった。

白滝でゼロから築いた財産をすべて放棄して、田辺へ帰る途中である。

客から


「奇跡を行う大本教という、すばらしい新宗教が綾部にあるそうだ」


と聞いた盛平は、わらにもすがる気持ちで進路を田辺から綾部に変更した。

綾部の大本教本部に到着した盛平は、金竜殿に通されて、鎮魂祈念するように言われた。

かつて覚えた密教加持の印行を行っていると、奥から一人の人物がゆったりと現れた。

「何か見えましたか」


「はい、肉づきの良い父でありますのに、透けるほどにたいそう細うなった父の姿が・・・」


「あなたのお父さんは、あれでよいのや」

盛平と王仁三郎という二人の巨大な人物の出会いであった。

盛平は三日間、綾部にとどまって、大本の教義を学び、鎮魂帰神の実習を受けた。

父の死は「天寿」だと、王仁三郎の言葉から悟ったからだった。

年明けて、田辺の実家に着くと、父は既に二日前、大往生をとげていた。

盛平への遺言は、ただ


「思うまま自由に生きよ。他に何も言うことなし」

 

だった。

盛平は、真剣を持って裏山に登り、狂ったように空虚を切りつづけた。

大正9年春、盛平は、母ゆき、妻はつ、長女松子、長男武盛、二男国治の一家をあげて綾部へ移住した。

盛平がその挨拶に王仁三郎を尋ねると、


「あんたが来ることは前からようわかっとった」


と喜び、自分の近侍になるよう求めた。

「あんたはな、好きなように柔術でも剣術でも鍛錬することが一番の幽斎になるはずじゃ」

「武の道を天職と定め、その道を極めることによって、大宇宙の神、幽、現三界に自在に生きることじゃ」

「大東流とやらも結構だが、まだ神人一如の真の武とは思われぬ」

「あんたは、植芝流でいきなされ」


「真の武とは戈(ほこ)を止ましむる愛善の道のためにある」 

天眼通、天耳通、自他心通、天言通、宿命通などの霊能力を身に付けていた王仁三郎には、盛平が、綾部にくることも、将来、世界に名を馳せる武道家になることも、分かっていたのだろう。

また、王仁三郎は、盛平の誠実さ、律儀さをこよなく愛していたようだ。

盛平は常々、

 
「弟子というものは、師のなさる事は何でも真似び(学び)、そして、やらなければならん」

「オレにはできん、それはいやだ、これはおかしい、などの逃げ口上や批判は、口が裂けてもいうべきことではない」

「だからわしも、聖師(王仁三郎)が書をよくされるもので、下手は承知で書道を稽古し、聖師が和歌や俳句を好まれるので、一生懸命、歌や句をひねっとる」

と語っていたという。

盛平はこうした誠実を以って、一生のあらゆることにあたってきた。

そして


「わしは、無から有を生ぜしむることが好きなのじゃ」


と語っているように、何もなきところに誠実さを以って


「有」


を生み出してきたのである。

この誠実さを以って、無から有を生み出す行為こそ、「気」の原理であり、合気道そのものである。

誠実さは、愛という言葉にも置き換えられる。

誠や愛を保ち続けるには「気」が質量ともに磨きあげられなくてはならない。

邪気、迷い気、凶気の類では百害あって一利なしである。

盛平は、「道」を求める過程で「気」を知った。

それは同時に「言霊(ことだま)の妙用」を知ることであり、「愛」を知ることでもあった。


   天地(あめつち)に気むすびなして中に立ち

   心がまえは山彦の道

   合気とは愛の力の元にして

   愛はますます栄えゆくべし


道歌に、こう詠んだ盛平は、昭和44年4月26日午前5時、多くの人に愛されながら昇神した。
 
86才だった。 


☆「道」とは


「極道」のように悪い意味では、他人を犠牲にしても利益を追求するような動物的な本能を優先する打算的な人間を、本能のままに生きる「動物の道」と言う意味で「畜生道」と言い、あるいは、足るを知らない「餓鬼道」と言うような「道」もあります。


下賤な僕が言うのも、おこがましいのですが「合気道」の「道」とは、「人の道」、「人生のあり方」であって、技術や技ではないようです。


☆合気道の不思議な力


もちろん、合気道の奥義は、相手の攻撃を全く受けない、ピストルの弾も当たらない、というサイキックとも言える武術です。

植芝創始による攻撃力は、一瞬の空手で、相手の骨を粉砕し、火箸で大の男を何人も投げ飛ばす神業であったようです。


ボクシング東洋チャンピオンであるピストン堀口が、いわゆる異種格闘技戦で植芝先生に挑み、あっさり負けてしまったというエピソードを聞いた事があります。


このときにボクシングのパンチが植芝先生に全く当たらず、両腕に植芝先生の空手チョップを受けて、両腕が骨折してしまったと昔の記事で読んだ記憶がありますが、記憶違いかもしれません。


Wikipediaによると、ピスト堀口が植芝先生に挑んだのは事実のようですが、単に「投げ飛ばされた」とだけ書いてあります。

また、別の記事によると植芝創始が農業を行うと、同じ耕地面積あたりの収穫量が通常の3倍となっていたようです。

植芝先生に関係を持てば、動物も植物も、生命力にあふれるという事のようです。


僕も知らないうちに、植芝創始の力により、難病が治るという奇跡を体験していた気がします。


当時、僕が合気道に入門していた時の植芝創始の門弟は世界に200万人でした。

☆植芝先生はアメリカにも影響を与えた

植芝創始の生活の世話をしていた、岡田氏というお年寄りから植芝創始の超人的能力をいくつか聞きました。

戦後のアメリカ軍占領下にあったころの話です。

ある日、植芝創始は、皇居のお堀の周りを散歩していたそうです。

 

怪しい人物がいるという事で、8人のアメリカ兵が、小柄な植芝創始を取り押さえ、植芝創始を持ち上げ、お堀に投げ入れようとした瞬間の事です。

いつの間にか、植芝創始ではなく、8人のアメリカ兵が全員、お堀の中に投げ入れられていたそうです。

この事件に、アメリカ軍は驚き、植芝創始はマッカーサー元帥に面談する事となり、以下の運びとなりました。

当時、アメリカ空軍では、パラシュートで落下時の骨折が、頻発して悩んでいたそうです。

当時は、パラシュートで落下しても、着地時に骨折する程の速度があるわけです。

そこで、合気道の受け身をパラシュート落下時の着地に取り入れる事となったそうです。

その事で、パラシュート落下後の着地で、骨折することは無くなったという事です。

この事により、合気道の名がアメリカで有名になり、世界に広まったようです。


また、ある時の事、岡田氏と数人の弟子達と植芝先生の自宅(神奈川県の日吉)に遊びに行ったときの事です。


当時は、今のように治安が悪くなく、家の玄関に鍵がかかっていなくて、近所の人や知り合いが自由に出入りしているような習慣でした。


植芝先生の自宅に入ると、その時は、植芝先生は不在でした。


すると、家の固定電話が鳴り、電話に出ると、植芝先生で、こう言われたと言うことです。


「今、伊豆に旅行に来ているので、しばらくは帰れないので、あなた達はお菓子をお土産として持ってきていると思うので、そこでお茶を入れて、そのお菓子を食べて、くつろいでいって下さい」


と、電話で言われた事があると言っていました。


もちろん、昔のことなので、今のようなGPSや感知器のような電子機器はありませんし、家も今のように密集してるわけでもありません。


どうやら、植芝先生は、自宅に弟子の数人が遊びに来た事を直感で感じ取ったようです。



☆日蓮と植芝創始の共通点
 

 

僕は日蓮より合気道を紹介され、不思議な体験をしました。

 

紹介と言っても、声が聞こえたわけでは無く、そのような気がしたという思い付きであり、いわゆる直感です。

日蓮と合気道創始者の植芝先生の共通点は、あるのでしょうか?

天才的僧侶として幼少期より大きな期待を持たれた日蓮でしたが、その才能ゆえに、独自の道を切り開きました。


本来、自分の中の神聖さを求める修行をするのが「仏教」です。


古代のアメニズム(原始宗教)のように「神や如来に願う」と言う事ではなくて、「自分が神や如来に近づくように修行をする」というのが「高等宗教」と言われる仏教です。


しかし、当時の仏教は「阿弥陀如来に祈願して、死後に極楽(天国)に連れてってもらう」という方法で「極楽という動物としての究極的な欲望を依存的に叶える」という「ご利益信仰」となっていました。


この阿弥陀如来信仰の起源は、仏教ではなくて、原始宗教のゾロアクスター教の天国信仰にあるとされています。


「ゾロアスター教の天国信仰」は、シルクロード貿易を通じて世界に広まり、キリスト教やイスラム教に影響を与え、また、仏教の浄土信仰という宗派として確立しました。


日蓮は、それを否定して、本来の仏教の姿である「自分の中の神聖さ(仏性)を覚醒させる」という修行に戻そうとしました。


しかし、当時の保守派の宗教や権力者の思想に反したとして、いったんは処刑されかけ、長期間幽閉されました。

日蓮は別名「蓮蜜」と言われ密教修行者です。

法華連行という、密教の呪文を100万回唱えるのどから血が出るほどの修行により題目「南無妙法蓮華経」という呪文を天から授かったようです。

合気道の植芝創始もまた、密教修行者であり、新たな道を切り開いた事など、共通点は多いようです。


☆敬称について

創価学会では、日蓮大聖人(にちれんだいしょうにん)と敬称を付けて呼んでいます。

しかし、僕はマスター(神)から
「敬称を省くように」

と言われています。


神は最も自立した存在なので、「認められたい」という承認欲求は不要と言うことです。


したがって、最高の敬意をこめて、また、何の魂胆も下心もない事を示す意味で、マスターについては、「さん」や「様」などの敬称を省き呼び捨てにします。

キリスト、マリア、観音、弥勒、アマテラス、日蓮、といったようにです。


もちろん、敬称をつけなくても、自分の心のあり方として、経緯や感謝の気持ちは必要で、これは相手に対する礼儀ではなくて、自分の心のあり方として極めて重要です。


スピリチュアルは、他人から見た礼儀ではなくて、心の中の在り方を問います。


神に対して「自分だけ特別扱いしてもらう」ために、神に敬称をつけたり、おだてても、それは神には通用しないという事で、下心や魂胆が見透かされているという事です。


よって、神に対しては、親や親友に話すように、自分を飾らず、ザックバランに話したほうが良いかと思います。


敬意や敬称や尊敬を求めるのは、コンプレックスを持つレベルの低い人間や、悪魔的存在であり、神であるマスターが我々に求めるものは何もありません。


「誰かに認められたいという承認欲求」や「仲間に属したいといった所属の欲求」等は、動物的な欲望に過ぎません。


もちろん、私達は動物なので、生きるためには欲望を満たす事が重要です。


闇とは肉体が生きるために必要な欲望であり、人間という動物として生きている以上、闇が必要であり、闇を消す事はできません。


闇を消すためには、肉体を捨てて、6次元までアセンション(次元上昇)する必要があります。


マーベル映画の「ドクターストレンジ」の中で、ストレンジの師の魔道士の「エンシェント・ワン」が「闇は消せませんよ」と話していますが、そういう事かと思います。


光を求めて闇を消すのではなくて、闇は必要であっても、闇に支配されて、闇に飲み込まれない事が重要です。


敬称の例として、商売人が、お客をおだてるために、客に対して「社長」と呼んだり、敬称の「様」をつけますが、それは「お金をもらう」という下心があるからです。


社会では、権威のある人に対しては、頭を下げて礼儀をわきまえても、浮浪者のような社会的弱者に頭を下げる人はいません。


しかし、キリストがそうであったように浮浪者のような社会的弱者の中に神に近い存在がいるのであり、キリストを処刑した権力者こそが悪魔です。


キリストや日蓮は、権力者に対して礼儀を損なったために、政治犯として裁きを受けました。


しかし、我々は、力や権威のある人間に、礼儀正しくしてしまい、社会的弱者である神的な存在をないがしろにしてしまいます。


社会的な礼儀とは、強者に対する依存でしかありません。


権威を持つ権力者のような悪魔的存在は、我々の前にしぶとく立ちはだかります。


しかし、神のような神聖な存在は、我々の前から、はかなく簡単に消え去ります。


その理由は、私達人類はは食物連鎖という弱肉強食の世界の頂点に立つ動物で、弱肉強食という悪魔の世界で生きているからです。


そのような悪魔の世界で、私達は常に試されています。


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★★★ FIN ★★★