大楽について | 徒然草子

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 古来、仏が到達した境地とは何か、或いは仏の境地とは如何なるものかについて仏教において重要な問題となってきたが、この事に関連して大楽という概念について概観してみる。 

伝統的な仏教の教義では楽とは苦の対義である。説一切有部のアビダルマ論において、苦とは煩悩の諸ダルマを因とするから、煩悩の諸ダルマの拘束から次第に離れる(離繫)ことにより、苦から離れてゆくとされる。そして、修道の過程において智慧を修めることにより苦を齎す煩悩のダルマを徐々に断ってゆき、最終的には苦から離れた阿羅漢(アルハット)の境地に入るとされる。そして、煩悩の諸ダルマの拘束から解放された阿羅漢(アルハット)の境地に到ると、最早、苦の世界である輪廻の領域に戻ることはないと言うが、かかる阿羅漢(アルハット)の境地は短ければ三生の間に、長くても60劫の間に到達することができると言われている。原始仏教の時代、仏教の開祖である釈尊もかかる阿羅漢(アルハット)の一人として考えられていた。

ところが、時代が下り、アビダルマ論が発達するとともに阿羅漢(アルハット)に対する仏陀としての釈尊の超越性が強調される様になると、釈尊が到達した仏の地位と阿羅漢(アルハット)の地位に関しても両者の相違が強調される様になった。説一切有部のアビダルマ論によると、仏になるには三阿僧祇劫という殆ど無限に近い期間に亘って般若波羅蜜などの六波羅蜜(六度)の修習が必要とされ、絶え間なくこれらの実践を続けてゆくことで菩薩としての道を歩み、遂には仏の境地に到ることができるとされた。かかる仏へと到る修道過程は阿羅漢(アルハット)への道よりも遥かに遠大且つ困難であり、4世紀の学匠サーラマティ(堅意)も『入大乗論』において仏への道を「大苦乗」と評している所である。だが、「大苦乗」たる菩薩乗の末に到達し得る仏の境地は阿羅漢(アルハット)を遥かに超越したものと考えられ、前期大乗経典である『華厳経』では、かかる仏の境地に関して果分不可説として、到底、言語で説くことができるものではなく、又、大乗仏教において小乗の聖者として看做されている阿羅漢(アルハット)が伺うことができるものではないとされた。

そして、仏と阿羅漢(アルハット)の境地に関する質的相違が強調される様になると、両者が享受する楽に関してもその相違が論じられる様になり、仏が享受する楽を特に大楽(マハースカ)と呼ぶ様になった。此処で後期大乗経典である『涅槃経』「徳王品」における大楽(マハースカ)に関する説明があるので、先ずは該当箇所を引用してみよう。

「善男子。有大楽故名大涅槃。涅槃無楽。以四楽故名大涅槃。何等為四。一者断諸楽故。不断楽者則名為苦。若有苦者不名大楽。以断楽故則無有苦。無苦無楽乃名大楽。涅槃之性無苦無楽。是故涅槃名為大楽。以是義故名大涅槃。復次善男子。楽有二種。一者凡夫。二者諸仏。凡夫之楽無常敗壊。是故無楽。諸仏常楽。無有変易。故名大楽。復次善男子。有三種受。一者苦受。二者楽受。三者不苦不楽受。不苦不楽是亦為苦。涅槃雖同不苦不楽。然名大楽。以大楽。故名大涅槃。二者大寂静故名為大楽。涅槃之性是大寂静。何以故。遠離一切閙法故。以大寂故名大涅槃。三者一切智故名為大楽。非一切智不名大楽。諸仏如来一切智故名為大楽。以大楽故名大涅槃。四者身不壊故名為大楽。身若可壊則不名楽。如来之身金剛無壊。非煩悩身無常之身。故名大楽。以大楽故名大涅槃。

以上の引用から大楽に関する教説の要点を以下に箇条書きで纏めてみよう。

①大楽は相対的な苦楽を超越している(「無苦無楽乃名大楽。」)。又、凡夫の楽の様に無常ではなく(「凡夫之楽無常敗壊。」)、恒久的なものである(「無有変易。」)。

②大楽は真理に裏付けられた真実であるが故に大寂静である(「遠離一切閙法故。」)。尚、閙とは偽りという意味である。

③大楽は仏智(一切智)に裏付けられている(「非一切智不名大楽。諸仏如来一切智故名為大楽。」)。

④仏身が金剛不壊であるから、その享受される楽は大楽と呼ばれる(「身若可壊則不名楽。如来之身金剛無壊。非煩悩身無常之身。故名大楽。」)。

以上の『涅槃経』における大楽の概念はその後の密教に継承されて『理趣経』の重要教理となる。『理趣経』は正式名称は『大楽金剛不空真実三摩耶経般若理趣品』と称するが、その経題(正式名称)に含まれている大楽の概念は上述の『涅槃経』における大楽の概念と通じる点がある。例えば、『涅槃経』では仏身と関連づけた上ではあるが、大楽が金剛堅固であるとしている点は先述の『理趣経』の経題(正式名称)における「大楽金剛」という語に通じるものがあり、又、『涅槃経』において大楽の裏づけを一切智(仏智)に求めている点についても、『理趣経』がその経題(正式名称)より般若の完成(般若波羅蜜)に大楽の基礎を求めている所に通じるものがある。更に加えると、『涅槃経』において大楽が一切の偽り(一切閙法)を厭離した真実の上に成立するとしている点に関しても、『理趣経』の経題(正式名称)において大楽が真実の悟り、すなわち、「真実三摩耶」において享受されるべきものとしている所に通じるものがある。

 ところが、『理趣経』自体は『涅槃経』とは異なり、経典本体において大楽に関して詳説することはなく、僅かに『理趣経』の第17段において「大欲」の完成によって大楽も成就されると説き、又、『理趣経』読誦の功徳により大楽の境地を享受することができると説かれている程度である。それでは、『理趣経』が説く大楽とは具体的には如何なるものであろうか。

 田中公明氏によると、それを知る手がかりになると思われる記述がチベットの大学匠プトゥンの著書『ヨーガタントラの大海に入る筏』にある。同書においてプトゥンは毘盧遮那仏が大楽身を現じた姿が金剛薩埵であるとされ、この時、金剛薩埵は美しい自身の妻妾に囲まれていた為、魔王とも第六天とも称されている他化自在天(パラニルミタヴァシャヴァルティン)は金剛薩埵らを讃嘆したと言う。すると、教主毘盧遮那仏は清浄句を美しい金剛女の姿で示現して般若の完成によって歓喜の大楽を享受することができると説き、他化自在天(パラニルミタヴァシャヴァルティン)を帰依させたと言う。

ところで、上記の伝承において大楽の境地が視覚化されていることが伺える。上述の通り、仏の境地はその超越性の故に本来的に果分不可説と称されて言語的表現が不可能なものである。だが、密教では曼荼羅という形でかかる仏の境地を視覚的に表現することは可能と考えた為、ヨーガにおいて曼荼羅が多用されることになった。真言宗の宗祖弘法大師空海もその著『御請来目録』において師恵果の言葉として「真言の秘蔵」は「図画」を「仮り」なければ相伝は困難であると述べている所である。

 さて、『理趣経』は毘盧遮那仏が欲界の最高処である他化自在天の宮殿で説いたとされ、プトゥンによると、その目的は悦楽の享受を恣にする欲界の王他化自在天を調伏教化する為であると言う。そして、上記の伝承によると、毘盧遮那仏は大楽を享受している様である大楽身として金剛薩埵の姿を化現したと言い、この時、金剛薩埵は、他化自在天が「完全無欠」と評する程、美しい妻妾に囲まれていたという。この事を契機にして、上述の通り、他化自在天パラニルミタヴァシャヴァルティン)は仏教に帰依するに至ったとされるが、此処で大楽の境地が美しい妻妾を侍らした金剛薩埵として象徴的に表現されていることが伺えるのである。

ところで、上記の伝承は近代密教学以前の伝統的な真言宗教学では知られていなかった。だが、密教第一の菩薩である金剛薩埵が大楽の法門において中心的な役割を果たすことは知られていた所である。

又、かかる金剛薩埵を中尊に欲、触、愛、慢の四煩悩を金剛女として表現し、金剛薩埵の妃として侍らせている、『理趣経』第17段と密接な関係がある五秘密の曼荼羅(五秘密曼荼羅)も真言宗でしばしば作成されてきた。真言宗教学的には当曼荼羅は浄菩提心たる金剛薩埵と欲、触、愛、慢の四大煩悩の本質的同一性を表したものと表現されることがあるが、一方で金剛薩埵が仏の大楽を象徴する菩薩であることから、成就した般若智により煩悩をもその本質的清浄性の故に楽として享受する大楽の姿として観ることも可能と思われる。

 さて、『理趣経』系の大楽の概念は金剛薩埵が妻妾を伴った形で表現されてきた所である。しかしながら、飽く迄、性的要素は隠微なままに留まっており、上述のプトゥンも感覚の対象の放棄をストレートに説くと、他化自在天(パラニルミタヴァシャヴァルティン)が恐怖してしまう為、方便として金剛女の姿を示現にしたに過ぎないと述べている所である。

  だが、8、9世紀以降のインドにおいてタントリズムやシャクティズムと呼ばれる性を重要視する宗教運動が爆発的に流行し、かかる風潮はヒンドゥー教のみならず、仏教、ジャイナ教をも巻き込んで展開していった。かかる宗教的流行は仏教では母タントラと呼ばれる一群の聖典とそれによる密教の教法に最も濃厚に反映され、主にこれらのタントラ群において仏教におけるセクソロジーが展開された。すると、『理趣経』の中心的概念とも言うべき大楽についても大きな変容を遂げることになった。

第9会の『金剛頂経』は、不空の『金剛頂経十八会指帰』によると、「一切仏集会挐吉尼戒網瑜伽」と呼ばれている。そのサンスクリット名は『サルヴァブッダサマーヨーガ・ダーキニージャーラサンヴァラ』であり、一般的に『サマーヨーガタントラ』と略称される。当該『サマーヨーガタントラ』は、今日、後期密教の聖典群の一種である母タントラの先駆的タントラであることが、学術的に認められており、その教理的内容も『理趣経』や第6、7、8会の『金剛頂経』とされる『理趣広経』からその多くを継承していることが知られている。かかる『サマーヨーガタントラ』は仏教において初めて本格的に性的要素を導入したことでも知られており、特に母タントラにおいて顕著である性的ヨーガを本格的に導入した聖典である。因みに、不空の『金剛頂経十八会指帰』では当タントラのヨーガや曼荼羅等に関して極めて簡単に触れているだけで、性的要素には言及していない。かかるサマーヨーガタントラ』における大楽概念について、田中公明氏の当タントラ研究に従って纏めてみることにする。

当タントラでは金剛薩埵は金剛界五仏から独立して金剛薩埵族と呼ばれる自身の部族を有するに至り、密教の根本仏として五仏を統べる仏となっている。かかる金剛薩埵は『理趣経』系の十七教理命題を象徴する金剛女に加えて四種の楽器を象徴する金剛女をも導入して二十一尊の部族を構成している。金剛薩埵は当タントラにおいて「大貪欲の大楽金剛薩埵」、すなわち、大いなる性欲を有する大楽の金剛薩埵とされ、従来の形而上学的な大楽観に性的な理解が加わる様になる。すなわち、大楽とは具体的性的悦楽の恒久化された状態をも意味する様になり、母タントラ系密教の用語ではサンヴァラと称される様になった。

 ところで、サンヴァラとは、元来、禁戒を意味し、『サマーヨーガタントラ』の漢訳名の中に「戒」という字が見出せる所である。ところが、田中氏によると、密教が興起していた頃のインド東北部ではサとシャの音韻上の相違が失われてしまい、楽を意味するシャンとサンとが同義的に解される様になった為、これに最高を意味するヴァラが合してサンヴァラという概念が成立し、母タントラのキー概念となったと言う。『サマーヨーガタントラ』の続タントラにおいてもサンヴァラという概念は一切如来の大楽を意味すると説示されている所であり、かかる大楽理解はインド密教最後の聖典『カーラチャクラタントラ』にまで継承されることになった。そして、『カーラチャクラタントラ』では金剛薩埵は「最高不変の大楽」(アクシャラスカ)そのものとされて空を体現する阿閦如来の化身たる主尊カーラチャクラの妃とされ、これら楽と空の交合の境地がカーラチャクラ父母仏として象徴的に表現され、楽と空の交合時において最高の仏身である清浄身、或いは倶生身が成就すると看做されるに至ったのである。