子路の死 | 徒然草子

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徒然草子-子路
                                   子路
孔子が10数年に及ぶ諸国遊説の旅から故国魯に帰ってから、間もなく、故郷の家を守っていた子の孔鯉が亡くなる(紀元前484年)。自身の子が亡くなった事に関して、孔子は相応に悲しかったと思われるが、管見の限り、孔子のコメントは知らない。次述する顔回や子路の死に対する対応と随分と個人的に差が感じられる。
続いて、紀元前482年、孔子の最愛の弟子の一人である顔回が亡くなった。彼の誰よりも抜きん出ていたその好学ぶりを愛していた孔子は激しく悲しみ、『論語』「先進」の中で「噫、天喪予、天喪予。」と痛切なコメントを残している。
そして、紀元前480年、最も長く孔子に仕え、又、勇敢さとともにその孔子への誰よりも篤い敬愛ぶりと抜きん出た正義感、そして、その素朴な人柄で孔子から最も愛された弟子の一人でもあった子路が仕えていた衛の国で非業の死を遂げた。子路の性格からして、乱世の春秋時代において穏やかな死を迎えることが難しいことは孔子にも予想されていた様だが、彼が衛国の政変の最中に殺され、その死肉が切り刻まれて塩漬けにされたと聞いた時、孔子は自身の家の中にあった肉の漬物を全て廃棄させて決して口にすることは無かったと言う。又、『春秋公羊伝』によると、孔子は子路の死に関しても、「噫、天祝予」とコメントしたと伝えられている。此処で「祝」とは祝福という意味ではなく、『世説新語』の何休の註釈によると、「断」という意味であるから、現代語に訳すと、「ああ、天は私を滅ぼそうとしている。」となり、顔回の時とほぼ同義のコメントをしていることになる。
顔回の死に加えて、子路の死は孔子にとって(予想されていたとは言え、)極めて痛切かつ衝撃だったのであろうか。その翌年の紀元前479年に孔子自身が終に亡くなってしまった。