ムアタズィラ派神学の思想概略5 | 徒然草子

徒然草子

様々なテーマに関する雑感を気ままに綴ったブログです。

8 存在論
(1)実体と偶有
ムアタズィラ派においてこの世界(アーラム)の事物、すなわち、神を除く全ての存在者、換言すれば、神の被造物を意味するが、それらは実体(ジャウハール)と偶有(アラド)から成るとされている。此処で実体とは延長を有し、かつ場所を占めるものを意味し、一方、偶有とは実体に宿る諸性質、例えば、色、生、死、意志、力等の類を指す。そして、二つ以上の実体が結合して構成された存在者を指して物体(ジスム)と称される。
さて、事物の存在に際して実体と偶有は必ず結合しなければならないのかという問題に関してはムアタズィラ派内部において諸説があり、例えば、フザイル派では偶有無き実体の存在を肯定したが、一方でアル・カービー(931年没)は偶有の無い実体の存在は有り得ないと主張した。以上の通り、実体と偶有の関係に関しては同派において一致を見ないのであるが、しかしながら、実体が、一度、偶有を受容した場合、偶有を脱する事はできないという点に関しては意見の一致を見ていた。
ところで、偶有の中には、その性質上、一つの実体の中において他の偶有と共存できるもの(例えば、色と生。)もあれば、互いに反対者の関係にあって共存できない偶有(例えば、動と静。)もある。もし、互いに反対者である様な偶有の場合、いずれかの反対者がその実体から消滅して初めて他方の偶有がその実体に存在することができるとムアタズィラ派では考える。
又、ムアタズィラ派では、これら実体と偶有が永遠的なものと考えない。と言うのは、ムアタズィラ派では永遠性こそが神の本質と考えるから、被造物である事物存在者を構成する実体と偶有に永遠性を認めてしまうと、それらも神と並んで無始の過去から未来永劫にかけて存在する事になり、その事は神の唯一性に反するから、実体と偶有は共に時間的存在でなければならないと見る。又、実体自体も偶有により限定され、実体を限定する偶有も、又、反対者の関係にある偶有と交代して消滅するものであるから、実体も偶有も非永遠的なものと言わざるを得ないと見られている。
さて、この世界の存在者は実体と偶有から成り、それらは永遠的なものではない事を見てきたが、そうした事物が存在する為には原因がなければならない。原因があって初めて存在し得る(可能)という意味では事物存在は可能的存在である。この事と対比する形で神の存在に触れると、神自身はその存在に関しては他の原因を要せず、自身の必然性そのものによる存在であるから必然的存在であるとムアタズィラ派では考える。

(2)原子論
ムアタズィラ派において実体とは具体的には原子(ジャウハード・ファルド)と解されている。ムアタズィラ派における原子論の起源に関しては、古代ギリシアのデモクリトスの原子論とする説、インド仏教の部派の一つである説一切有部の原子論とする説等があり、明確ではないが、同派における最初の原子論の主唱者はアブー・フザイルと言われている。因みにムアタズィラ派の原子論は後にアシュアリー派にも継承され、発展させられる事になる。
ところで、原子論に関してはムアタズィラ派において一致して承認されていた訳ではない。
例えば、ナッザームは数学的に無限小な点である原子が相互に結合する事は有り得ず、物体は無限に分割する事が可能であるとして原子論に反対した。かかるナッザームの説に関しては、アブー・フザイルは神が点を三次元化することにより相互に結合することができると反論した。
ナッザーム以外にもアブー・バクル・アル・アサンムが原子論に反対したが、彼は物体自体が可視的な質であるから、質自体を物体から独立させる事はできないと主張し、原子論を論じる事自体、無意味であるとした。これに対してアブー・フザイルは人間がイスラーム法(シャリーア)に反した場合に罰せられるのはその人の人格そのものを責めているのではなく、その人の行った行為を責めているのであるから、アサンムの説はイスラーム法(シャリーア)の考えに反すると主張した。
尚、ムアタズィラ派の原子論に関しては、次の様な主張が知られている。
①物体は原子から成っている。

②匂いは空気中に散在する原子と関係を有する。

③味は諸原子の効果である。

④光は空気中に散在する原子から構成されている。

⑤物体の貫通は不可能な事ではない。
※但し、全ムアタズィラ派一致の見解ではない。

⑥物体を構成する原子がその物体から跳躍する事は不可能なことではない。尚、物体から原子が個別に跳躍する場合、その物体そのものの同一性は保たれていると言う。
※但し、全ムアタズィラ派一致の見解ではない。

(3)『コーラン』創造説
伝統的信仰において『コーラン』は神の言葉として神とともに永遠にあったものであって創造されたものではないとされる。
これに対してムアタズィラ派では『コーラン』は永遠の存在では無く、飽く迄、神の創造にかかるものと看做される。かかる主張を『コーラン』創造説と呼ぶ。
ムアタズィラ派によれば、先ず、永遠性とは唯一なる神自身の本質のみを指すものであり、神の言葉を指すものではないと言う。更にムアタズィラ派によれば、言葉とは思考を表現する配列された子音と区切られた音とされ、又、ジュッバーイーの様な例外を除けば、言葉は話者が自身の相手に発語する事により初めて存在し得るものであり、発話される以前においてはそもそも言葉自体が存在していないとムアタズィラ派では考える。従って、『コーラン』の言葉は永遠に存在していた訳ではなく、神が預言者ムハンマドに発話する事で初めて存在したものであるから、ムアタズィラ派では『コーラン』は神により創造された被造物と考える訳である。
又、更に『コーラン』に関して次の様に言われる。すなわち、『コーラン』は神の啓示であるが、その言語はアラビア語である。又、その内容も明らかに預言者ムハンマドが生きた時代のアラビア半島の状況を前提とした時間的かつ空間的に限定されたものである。従って、『コーラン』はある特定の時代の特定の場所の人々を対象に下された神の啓示であるから、永遠的なものとは言い難いと言い、もし異なった時代の、異なった場所の人々に啓示が下された場合、『コーラン』は現在のものと異なった内容のものになったと考えるべきであると言う。

9 政治思想について
以下、ムアタズィラ派の政治思想に関して、箇条書きにして簡単に見てゆこう。
〇正義の実現の為には武器を採って戦わなければならないことがあると主張した。
〇正統カリフや教友に関して絶対視乃至理想視する事は無く、評価や批判は許されるとした。
〇正統4カリフの評価に関して、初期のムアタズィラ派の多数説はアブー・バクルを以て最高としていたが、後期ムアタズィラ派においては第4代カリフのアリーを以て最高と評価する様になった。かかるカリフの評価の変化の背景には後期ムアタズィラ派が今日のスンニー派の正統派陣営に対して守勢に立たされる様になり、その結果、同派が次第にシーア派に接近していった事情があるものと考えられる。