ムアタズィラ派神学の思想概略4 | 徒然草子

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7 神の正義
(1)神の正義
神が正義である事に関してはイスラーム内部において何ら異論は無い。しかしながら、神の正義とは何かを巡り、ムアタズィラ派とその反対派の間で意見の対立が存した。
ムアタズィラ派によれば、行為は本質的に正義であるものと本質的に不正であるものとに二分される。例えば、神に服従する者に賞を与え、罪人を罰する事は本質的に正義である。一方、神に服従する者を罰し、罪人に賞を与えることは本質的に不正であり、かかる不正は絶対的な正義である神のよくする所ではないと言い、又、神が自身の被造物である人間に自由意思と行為能力を与えずして罪悪に関与させ、その上でその者を罰する事は醜悪であり、不正に他ならず、やはり、絶対的正義である神のよくする所ではないと言う。要約すれば、ムアタズィラ派によれば、神は正義のみを創造し、決して不正を創造する事はないと言い、人間による不正な行為は専ら人間の意思と行為能力の創造によるものであって神が創造するものではないとされる。というのは、もし、人間の不正な行為も神の創造によるものとすれば、それは神の正義に反する事になり、その結果、神は不正の創造者と言う事になるからである。
更にムアタズィラ派によれば、神は自身の約束を破る事は無いと言い、何となれば、約束を破る事は不正に他ならないからであると言う。実際、『コーラン』にも次の一節がある。
「本当に神は決して約束を違えられない」(第13章第31節)
だから、罪人達は間違いなく神に罰せられるのであり、その死を迎える迄に悔いることの無い限り、決して許される事は無いとされる。
又、ムアタズィラ派によれば、神は人間に不当な苦役、換言すれば、人間の手に負えない苦役を課する事は有り得ないと主張する。というのは、『コーラン』にも以下の一節があるからである。
「神は誰にも、その能力以上のものを負わせられない。」(第2章第286節)
従って、ムアタズィラ派によれば、基本的に人間の行為によってもたらされる不正や悪の結果は人間自身の責任であり、神が何ら責任を負うべきものではないとされる。
だが、その一方で災難や不幸、更にはその苦しみが当該人の行為を原因としない、所謂、義人の苦しみといったものが存する事をムアタズィラ派は認める。これらに関して、ムアタズィラ派は、かかる苦しみにある者には神による(死後における場合も含む)救済の補償があるから、これらの事態自体は神の正義に反するものではないと主張するのである(※1)。
※1:今日の正統派神学の一派であるアシュアリー派神学の祖アシュアリーの師であり、かつムアタズィラ派神学の学匠であったジュッバーイーは、不信心者が普通に生きている事に関して、神は彼等が悔いる事を知っているからであると主張したと言われている。かかるジュッバーイの正義論に関して、以下のエピソードが伝わっている。
ある時、アシュアリーは師のジュッバーイーに対して、敬虔な信者である兄、不信心者である弟、そして幼くして亡くなった末弟の死後の運命に関して尋ねたと言う。この問いに関して、ジュッバーイーは兄は神により天国で恩賞を受け、弟は地獄で罰せられ、末弟は恩賞を受ける事は無いが、罰せられる事も無いと答えたと言う。
これに対して、アシュアリーは末弟は神により天国に迎えられたのではないかと改めて尋ねた所、ジュッバーイーは、神が末弟の命を幼時に奪ったのは、彼が長じて不信心者になる事を知っていたからであると答えた。
すると、アシュアリーは、それならば、何故、神は不信心故に地獄において苦しんでいる弟に関して、末弟の場合の様に幼時にその命を奪って来るべき地獄の罰から救わなかったのかと尋ねた所、ジュッバーイーは黙ってしまったと言う。


(2)普遍的理性と道徳律

ムアタズィラ派は人間の理性(アクル)を重視し、理性主義的神学を唱えたとして知られているイスラーム神学の一派である。
ムアタズィラ派によれば、人間は理性により真理の認識が可能であり、更に理性こそが真理の標準であると主張するが、かかる理性や真理は神に由来するものとされる。そして、神に由来する真理は事物においては事物の真理となり、そして、人間社会においては道徳律になると看做されている。
ムアタズィラ派によれば、かかる理性はおよそ人間である限り、ムスリム、非ムスリムの別を問わずに付与されているものであり、又、真理も場所を問わない普遍的なものである。従って、イスラーム世界外においては真理は理性により見出されてきたのであり、それ故、イスラーム以外のギリシア、ユダヤ、ペルシア、インド等の諸宗教諸思想においても、イスラームとは外形は異なるとは言え、真理の発露が見出されるのであり、理性の働きさえあれば、必ずしも聖典『コーラン』の様な神の啓示が無くても、人間は高遠な真理に到達する事ができる。だから、イスラーム世界外に由来する諸学問も否定されるものではないと言い、又、イスラーム世界外においても道徳律に適った優れた人間が存在する。これらを踏まえて、ムアタズィラ派は聖典『コーラン』に関しても理性の目を通して読み、解釈されなければならないと主張するのである。
理性は神に由来し、人間に付与されているものではあるが、但し、理性を付与されているという事は直ちに人間が真理に到達できる事を意味するものではないし、この事は経験的に知られる事である。
其処でムアタズィラ派は人間の成長とともに思考能力が向上する事により理性による真理認識が段階的に可能になると考えたが、フザイル派の祖アブー・フザイルの場合、以下の通りに整理している。

①幼年期の段階
十分な思考能力は無いが、自身の存在を自覚し、肉体と霊魂に関して知り始め、道徳的責任を知る様になる。

②少年期の段階
神の唯一性といった神に関する諸問題について明確な認識は無いが、神の存在や道徳的責任について自覚を有する様になる。

③完成の段階
神や道徳律に関する諸問題に関して理解を有する様になる。

ところで、ムアタズィラ派において理性による真理把握の問題とは認識(イルム)の問題に他ならない。かかる認識の内実に関して初期のムアタズィラ派は認識対象をその存在態様に即して確実感を以て信じる事と定義されたが、当該定義によれば、他人からのある事柄の伝聞を無批判に受容し、確信する事も認識に含まれてしまう。例えば、ある人が第三者から神の存在について教えられ、そのまま確信する事も認識という事になるが、この場合、理性の働きを見出す事ができないから、理性的認識を主張するムアタズィラ派にとって背理に他ならなかった。
其処で後期ムアタズィラ派では認識の定義を修正し、認識対象をその存在態様に即して必然的かつ自明的、若しくは正しい推理を通じて確実感を以て信じる事とされる様になった(※1)。
此処で必然的かつ自明的な確実感を伴う認識対象の把握とは、認識対象の真理に関する真理の自明性及び必然性故の直観を指し、それは理性の指示によりその内容が直ちに確定される事であり、この場合における理性的認識において何ら論証を要しない。
一方、正しい推理による確実感を伴う認識対象の把握とは、正しい論拠とその論拠の指示に厳密に従って確実な正しい知識を得る事であり、ムアタズィラ派によれば、推理が正しければ、必然的に正しい結果を導出する事ができると言い、かかる正しい推理を成立させるものが理性であるとされる。
以上の理性と認識の議論から伺える様に、ムアタズィラ派において理性が非常に重視された事が伺え、同派の神学の性格が理性主義的神学と呼ばれる所以の一端も上述より知られる訳だが、しかしながら、ムアタズィラ派自体は、別段、近代ヨーロッパ的な意味での理性の自立を目指した訳では無い。彼等は、上述のアブー・フザイルの説から伺える様に、理性による真理の探求こそがこの世界の創造主である神へと至る道、換言すれば、神の認識へと至る道と信じていたのであり、又、同時に道徳律の修得と人間としての徳の向上に資すると考えていた。要約すれば、ムアタズィラ派における理性的認識の重視と探求とは、神への信仰を深める為であるとともに人間としての倫理性の向上を目指したものであった。
※1:後期ムアタズィラ派の巨匠カーディル・アブドゥル・ジャッバールはその著『ムグニー』において認識とは信に属すると主張し、認識を以下の通りに定式化する。
すなわち、認識とは認識主体と認識対象との関係において必然的に認識主体に心の平静をもたらす事であり、その時、信は認識対象の存在態様に即して結びついていると言う。そして、もし、信がその存在態様に即して結びついていないのであれば、それは無知(ジャハル)であると言う。
又、存在態様に即して結びつきつつも、心に平静をもたらしていない場合、その状態は無知とは言えないものの、認識と言う事はできないとされる。此処で心の平静をもたらすとは確信と言い換えても良い。

(3)人間の行為と道徳律

ムアタズィラ派によれば、人間の行為は無意識的行為と意識的行為に二分される。
前者の無意識的行為とは、ムアタズィラ派の神学者イスカーフィーによれば、認識や意志伴わず、事前の考慮も無く行われる行為と定義されるが、具体的には顔色の変化など人間の意志に関わらず起こる行為とされ、それらは神の創造にかかる行為とされる。
一方、意識的行為とは、イスカーフィーによれば、事前の配慮が存し、当該行為の実行が可能な人間による意志の決定に基づく行為と定義され、又、ナッザーム派の祖ナッザームは実行可能な選択肢の中からの意志による選択の決定の表示と捉えた。
更にアブー・フザイルは意識的行為においては意志による決定が当該行為の重要な要因であると述べ、更に意識的行為の決定に際してはそれに先行する意志と能力も存しなければならないと指摘した。と言うのは、意志に基づく行為においては当該行為を行おうとする意志の決定とその決定を実行に移すだけの能力がなければ成立しないからである。
上述より、アブー・フザイルらは人間の意識的行為は当該行為に関する人間の能力、意志、実行より構成されているとして分析を行ったが、ジュッバーイーはアブー・フザイルらの分析を定式化して、人間の能力はその行為に先行して存在し、行為は人間の意志に直結していると述べた上で、意識的行為とは人間に由来する人間固有の行為であり、それは人間自身による行為の創造であると主張した。
上述のジュッバーイーの説はムアタズィラ派諸派が一致して認める所ではあるが、此処でこれらの教説を改めて纏めると、人間には予め神から付与された能力の限度内において行為の実行可能性が存しているのであり、その上で、意識的行為とは、存在している実行可能な複数の行為から人間がその自由意志によって任意の特定の行為を選択し、実行したものを指すと言う事ができる。
さて、これまで見てきたムアタズィラ派の教説に従えば、人間は自身の自由意志によりその能力の限りにおいて自身の行為を創造する事ができる以上、人間はその行為について責任を負わなければならないし、その行為の善悪により神から賞罰を受ける事になる。例えば、『コーラン』には次の一節がある。
「本当に信仰して善行に励み、礼拝の務めを守り、定めの喜捨をなす者は、主の報奨を与えられ、恐れも無く、憂いも無い。」(第2章第227節)
「あなたに訪れるいかなる幸福も神からのものであり、あなたに起こるいかなる災厄はあなた自身からのものである。」(第4章第79節)
「人間と石を燃料とする地獄の業火を恐れなさい。それは不信心者の為に用意されている。信仰し、善行に勤しむ者達には、彼等の為に川が下に流れる楽園についての吉報を伝えなさい。彼等は其処で糧の果実を与えられる度に、「これは私達に、以前、与えられた物だ。」と言う。彼等には、それ程、似た物を授けられる。又、純粋は配偶者も授けられ、永遠にその中に住むのである。」(第2章第25節)
上掲の『コーラン』の章句はムアタズィラ派の教説の聖典上の根拠でもある。その上、『コーラン』には、
「神は誰にも、その能力以上のものを負わせられない。」(第2章第286節)
という章句もあるから、人間が負うべき責任とはその人間が有する能力の範囲における惹起可能な結果に対するものであるとし、絶対的な正義にして善なる神は人間に対して決して不当な事は行わないとムアタズィラ派は考える。
それでは、神の賞罰の対象となる行為の善悪の基準、すなわち、道徳律は何によって見出されるのであろうか。同派によれば、前節において見てきた様にそれは理性によって見出されるとされる。
ムアタズィラ派によれば、道徳律は理性的認識を通じて発見されるものであり、前節において概観した認識論と同様、道徳律も自明なものと正しい推理によって見出されるものとがあると言う。尤も正しい推理による道徳律の発見の場合、先ず自明的な善、或いは悪の事柄を基礎とし、それと与件としての事実とを比較する事で推理を進めてゆくことになる。
上述より推理による道徳律の発見において自明的な善悪の直証の存在が前提となる訳であるが、此処で自明的直証の基準となるものが正常な判断能力を有する人間であると言う。例えば、川に溺れた人間を助ける事は善行であり、又、忘恩の行為が悪である事は正常な判断能力を有する人間にとっては自明な事であり、それはムスリムであろうと、非ムスリムであろうと、およそ理性があり、正常な判断が可能な人間である以上、当然の事柄である(※1)。
従って、ムアタズィラ派によれば、理性を有し、正常な判断能力を有する人間が理性的に悪と判断される行為を敢えて行う時、それはその者が自身の意志により神に由来する自身の能力を用いて当該行為を好んで行っている事を意味するから、その結果、絶対的正義である神から罰せられたとしても、それは至極当然の結果であり、何ら同情すべき事ではないとされる。それ故、最後の審判において預言者ムハンマドがムスリムの為に神に執り成しを行うと言う伝統的信仰もムアタズィラ派においては否定される事になる。
当節の最後にウマイヤ朝時代において大きな問題となった行為と信仰の問題に触れる。イスラーム初期の分派であるハワーリジュ派によれば、行為がイスラームの戒律から逸脱した場合、当該行為者は、最早、信仰を失った背教者に他ならないと主張し、一方、政治的立場としてはウマイヤ朝に近かったムルジア派はその行為が戒律から逸脱しても、その程度に関わらず、信仰を失った事にはならないと主張した。
上述の行為と信仰の問題に関して、ムアタズィラ派の多数派は両者の中間の説を採り、その罪が重大な場合は、最早、ムスリムとは言えないとし、一方で軽微な場合、その行為により直ちに信仰が失われる訳では無いと主張した(※2)。当該説はムアタズィラ派の始祖と伝えられるワーシル・イブン・アターウに由来するものと言われ、この説を称えたが故に、信仰と戒律が合致しない者は似非信者(ムナーフィク)であると主張した師のハサン・アル・バスリーと対立する事になったと言われている。
※1:ムアタズィラ派によれば、神の啓示(『コーラン』やイスラーム法など)は理性により見出される善悪の判断を強化し、その細則を示したものとされる。

※2:ムアタズィラ派内部においてもアブー・バクル・アル・アサンム(816年頃没)らの様にムスリムが重大な罪を犯したとしても、彼自身の信仰告白と従前の善行により彼はムスリムであり続けるとする説があった。