ムアタズィラ派神学の思想概略3 | 徒然草子

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6 神の唯一性(タウヒード)
(1)序説
神の唯一性(タウヒード)に関する議論をイスラーム神学においてタウヒード論と言う。ところで、タウヒードという概念は意外に多義的で、以下に挙げる様に更に4つに分類することができる。

①アル・タウヒード・アル・ドゥハティ
神は本質は一なるものであり、他に比すべきものが無いユニークなものとするタウヒード。『コーラン』には次の様な章句がある。
「彼に比べられるものは何もない。」第42章第11節
「彼に比べ得る、何ものもない。」第112章第4節

②アル・タウヒード・アル・シファティ
神の属性と伝えられる神の知識、力、生命、意志、知覚、聴覚、視覚等は神の一なる本質の現れの単なる比喩に過ぎず、それらは何らリアリティーの無いものとするタウヒード。

③アル・タウヒード・アル・アファティ
この世界の存在者や現象、更には人間の行為も神の意志の現れであり、又、それらは神の聖なる本質の顕現と見るタウヒード。

④アル・タウヒード・アル・イーバディ
一なる神の他に何者も信仰してはならないとするタウヒード。

上記のタウヒードの内、①から③までは神と被造物の関係、或いは神的本質の問題に関するタウヒードであり、④は被造物側の行為に関するタウヒード、具体的には礼拝行為に関するタウヒードであり、一なる神のみが礼拝の対象に値するという主張のタウヒードである。
これらのタウヒードの内、①と④はイスラームの最も基本的な教義であり、イスラーム内部において原則的に異存は無い(※1)。ムアタズィラ派を取り上げる上で問題となるのは、上記のタウヒードの内、②と③との関わりである。
先ず③のアル・タウヒード・アル・アファティに関しては、別述する通り、ムアタズィラ派は人間の意識的行為は人間自身が創造するものであるという立場を採るから、当該タウヒードは否定されるが、一方、スンニー派の正統派神学であるアシュアリー派においては全面的に肯定される。
一方、②のアル・タウヒード・アル・シファティに関しては、ムアタズィラ派は全面的に肯定し、アシュアリー派では否定される。
此処でムアタズィラ派のタウヒード論を仔細に見てゆこう。
神の本質に関してはムアタズィラ派は全派一致して永遠性を挙げる。ムアタズィラ派では永遠性は神の存在の本質を意味するが、それは神が無限の過去から存在し、かつ現在も存在し、これからも未来永劫に亘って存在するという事である。そして、ムアタズィラ派はこの永遠性以外の如何なる本源的属性、乃至永遠的な性質というものを認めない。そして、神の知識、力、生命、意志、知覚、聴覚、視覚といった『コーラン』にも登場する神に関する叙述は神の本質から派生した性質であって、しかも、それらは、神が如何なる被造物と比べ得る存在では無い以上、我々人間が、通常、観念する様なそれではないし(「彼に比べ得る、何ものもない。」第112章第4節)、又、それらは神の内において永遠に内在していたものではないという。何故ならば、それらの諸属性諸性質が神自身の存在とともに永遠なるものであるとすると、それらも神自身の本質である永遠性を分有している事になり、永遠性を本質とする神自身と並ぶ存在を認める事になるから、神の唯一性と矛盾する事になると考えるからである(※2)。
以上からムアタズィラ派では永遠性のみを神の本質とし、神の知識、力、生命、意志、知覚、聴覚、視覚といった諸属性諸性質は神にとっては全く派生的なものであり、又、それらは我々人間が、通常、観念する様なそれではないと論じられるが、其処で今度は神の知識、力、生命、意志、知覚、聴覚、視覚といった諸属性諸性質は如何なるものかが問題となり、ムアタズィラ派内部において熱烈な議論が交わされたが、以下にそれらの主要なものを概観する事にする。
※1:ハンバル派の流れを汲むワッハーブ派はスーフィズムで見られる聖者信仰やシーア派のイマーム信仰は④のアル・タウヒード・アル・イーバディに反すると主張するが、スーフィズムやシーア派の方は聖者信仰やイマーム信仰は神への仲介を依頼するものであり、聖者やイマーム自体を礼拝するものではないと反論する。

※2:かかるムアタズィラ派の議論の背景にはキリスト教の三位一体論に対する論駁意識があることが推察される。

(2)神の知識と能力
神に知識があるという意味に関して、ナッザームをはじめバスラやバクダードのムアタズィラ派の多数説は神は知者であり、能力者であるという意味に過ぎないとした。更にナッザームは神に知識があるという事は、神の本質における無知の否定の意味であり、又、能力があるという事は、神の本質における無力の否定の意味であると論じた。
別の一派は神の知識とは神の認識対象の意味であり、又、神の能力とは神によって実行されたことを指すものと解した。
アブー・フザイルらフザイル派は神の知識や神の能力とは神自身を指すと解した。
アッバード・イブン・スライマーンらは神に知識や能力があるとは言えないし、無いとも言えないとした。
アブー・ハーシム(993年没)は状態(ハル)という概念を用いて、神に知識がある、能力があるという意味は神の内において知っている事の様態や能力があることの様態の様な永遠なる状態が存在する意味と解した。

(3)神の生命

神が生命を有するという事は神が人間と同じ意味で生きているという事を意味するものではない
とナッザームをはじめバスラやバクダードのムアタズィラ派の多数説は主張した。
アブー・フザイルらフザイル派は神の生命とは神自身を指すと解した。
アッバード・イブン・スライマーンらは神に生命があるとは言えないし、無いとも言えないとした。

(4)神の意志
神が意志を有するとは、アル・カービーらは神が何かを創造するという意味であり、人間に対して何かの行為を欲するという事は神が当該行為を命じる事を意味するとし、人間の様に意志を有するという意味ではないとした。
ナッジャールは神が意志を有するという意味に関して、その本質上、欲する者の意味であると解し、他者から絶対的に強制されないという意味であると解した。

バスラのムアタズィラ派は有始的なものを欲する事は有始的な意志を有するからであると解する。というのは、凡そ意志とは有始的なものであり、意志内容が有始的なものである以上、意志自体も有始的ならざるを得ないと解したからである。

(5)神の聴覚、視覚
神が聴覚、視覚を有するという事は神が人間と同じ意味において聴き、視るという事を意味するものではないとナッザームをはじめバスラやバクダードのムアタズィラ派の多数説が主張した。
一方、一部のムアタズィラ派は神は本来の意味で神は聴き、視ると解した。
アッバード・イブン・スライマーンらは神に聴覚や視覚があるとは言えないし、無いとも言えないとした。
アル・カービーやナッジャームは神が聴覚や視覚を有するという事は認識対象をあるがままに正確に認識することを意味すると解した。
ジュッバーイーは神が聴覚や視覚を有するという事は神が生きていて、欠点が無いという意味に解した。