4 ムアタズィラ派の基本信条(ムアタズィラ派の五原理)
既述の通り、一言でムアタズィラ派と言ってもその主張は学派や学者によって多種多様であるが、以下に挙げる五つの信条は同派の基本原理として一致して認められていたと言われている。
①神の唯一性(タウヒード)
神の絶対的唯一性を受け入れるとともに、神における多性や属性に関しては唯一性に反するとして否定する。
②神の正義(アドル)
神は正義であり、自らの被造物を苦しめる事はしない。
③神の応報(アト・ワード・ワ・アル・ワーイド)
神は信仰者に恩賞を与え、不信者に罰を与える。この事は確実である。それ故、神の赦しは罪人が悔い改めた場合のみに在り得るのであり、さもなければ、許す事は無い。
④二つの立場の中間(マンズィラー・バイナ・アル・マンズィラタイン)
この信条の意味は、飲酒、姦通、嘘等の罪を犯したムスリムである罪人(ファシク)は信仰者とは言えないし、又、背信者でも無いから、それはそれらの中間に位置する者であるという事である。
⑤正義と合法的な事柄への従事義務と誤りと非合法的な事柄の禁止(アル・アムル・ビル・マールワ・ワ・アル・ナハイ・アン・アル・ムンカル)
この信条に関しては、ムアタズィラ派は以下の通りに説明する。
何が正義で、何が誤りかはイスラーム法(シャリーア)だけが排他的に決定するものではない。少なくとも、仮令、部分的にせよ、人間はその理性(アクル)により様々な種類の正義や誤りを見分ける事が可能である。
又、正義の実行は原則的に全ムスリムが個人的レベルにおいて負うべき普遍的義務であり、統治者(カリフ)の存否に関わらない。尤も幾つかの義務、例えば、イスラーム国家の防衛、イスラーム法(シャリーア)の施行等は統治者のみに課せられた義務である。
以上がムアタズィラ派の基本的な五つの信条であるが、ムアタズィラ派を知る上で最も重要な信条は上記①の神の唯一性(タウヒード)と②神の正義(アドル)であり、ムアタズィラ派において他の三つはそれらに比べて派生的な立場にある。と言うのは、③、④、⑤は②の神の正義に収斂可能とされ、又、彼等は自らを「神の唯一性と正義の民」を自称していた事からも伺われる様に、①と②こそがムアタズィラ派の最も根本的な信条とされていた事が知られるのである。
5 神の絶対性、無限性、超越性-神の具象的把握の拒否
神が絶対的、超越的存在である事はイスラームのみならず、ユダヤ教、キリスト教といったセム的一神教が等しく認めている所である。その一方で、『コーラン』において神は恰も人間の様に生き生きとした様で登場し、神は人間に話しかけ、慈しみ、怒り、見たり、聞いたり等をしている。神が超越的絶対者であるとともにその生き生きとした生きた姿は伝統的イスラームの信仰に合致するものであるが、ムアタズィラ派では神を一切の概念を拒否する超越者、無限者である事を強調するとともに、『コーラン』に登場する生きた神の姿の描写は単なる比喩に過ぎず、そのままで受け取る事はできないと主張する。
というのは、ムアタズィラ派によれば、神は、飽く迄、永遠なる存在であり、如何なる概念を超越した無限者であって、人間の思念を超えているから、かかる神を人間化して捉える事は神を矮小化する事に他ならないと考えたからである。
例えば、『コーラン』によれば、神は天空に広がる玉座に腰掛けている事になっているが(※1)、ムアタズィラ派によれば、これも単なる神の荘厳に過ぎないとし、字義通りに採る事は許されない。神は無限者であるから、特定の場所にいる訳ではないし、神はこの世界に遍在するとともにこの世界を超越しているから、かかる神の在り方に関して、ムアタズィラ派は様々な形で表現したが、アシュアリーの報告によれば、神は至る所に在るという者、神は何処にもいないという者、神は永遠の過去からいる所にいるだけだという者、神はあらゆる場所を包含するとともに至る所に神は見出されるという者が
いたと言う。
いずれにせよ、ムアタズィラ派は神を具象的に捉える事を拒否したのであり、例えば、伝統的信仰において信じられてきたムスリムは死後に神を見るという伝承(※2)を否定した。其処で死後において神を見るという事の意味に関して如何に解するかという問題が生じてくるが、この点に関して、アシュアリーによれば、ムアタズィラ派内でも諸見解が存在していたと言い、例えば、アブー・フザイルら多数説は心で神を見るという意味で解していたと言う。その一方でヒシャーム・アル・フワイティーやアッバード・イブン・スライマーンらは心で神を見る事すら否定していたと言う。
ところで、ムアタズィラ派の最大の関心事は具象的把握を一切拒否する神を理性的論証により把握し、それにより神に至る事にあった。その結果、ムアタズィラ派の議論は煩雑を極め、却って神の姿を多種多様な議論の中に埋没させていった観は否めないかも知れない。しかしながら、彼等の煩瑣な議論は衒学的動機によるものではなく、彼等なりの真摯な信仰に動機づけられたものであったという事を附言しておいて良いと思われる。
※1:『コーラン』の関連箇所を列挙すると、以下の通り。
〇「天使たちはその(天の端々)におり、その日、8人(の天使たち)が彼等の上に、あなたの玉座を担うであろう。」第69章第17節
〇「あなたは見るであろう、天使たちが八方から玉座を囲んで、主を讃えて唱念するのを。人々の間は公正に裁かれ、「万有の主、神にこそ全ての称讃あれ。」と(言う言葉が)唱えられる。」第39章第75節
〇「(主の)玉座を担う者たち、またそれを取り囲む者たちは、主の後光を讃え、彼を信仰し、信じる者達の為に御赦しを請い、祈って(言う)」第20章第7節
〇「慈悲深き御方は玉座に鎮座なされる。」第20章第5節
※2:『コーラン』第6章第103節において「視覚では彼(神)を捉えることはできない。」とある一方、第75章第22節から第23節にかけて、「その日、或る者達の顔は輝き、彼等の主を仰ぎ見る。」とある。