ムアタズィラ派神学の思想概略1 | 徒然草子

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1 はじめに
以下に記す標題の内容は、今から10年程前、個人的興味から調べて私的に纏めておいたものである。改めて見てみると、補足等の必要性が色々と感じられるが、嘗ての自分自身の記録と割り切って誤字脱字等の訂正を施して掲載してみる。

2 名称、起源
ムアタズィラ派の出現とともにイスラーム神学は本格的に始まった。
とは言え、ムアタズィラ派とは、実の所、単一の学派の呼称ではなく、共通の基盤と傾向を有する複数の神学の学派の総称の様なものであり、その主張は学派や学者によって多様多岐に渡っている。
さて、ムアタズィラ派という名称は「身を引く」を意味するアラビア語の動詞イタズァラに由来するものであるが、彼らが何から身を引いたのかについては幾つかの説があり、此処でそれらを下記に列挙してみる。

①ムアタズィラ派の祖と伝えられているワーシル・イブン・アターウ(748年没)が師であるハサン・アル・バスリー(728年没)の説から身を引いた事に由来するという説

②動詞イタズァラを「離れ去る」という意味に解し、理性的思弁を拒否する伝統主義から離れ去った事に由来するという説

③正統カリフ時代末期における第4代カリフであるアリーの戦い(アル・ジャマルの戦い、シッフィーンの戦い等)に際し、第2代カリフであるウマルの子であり、教友であるアブドゥラー・イブン・ウマル(692年没)に倣い、どちらの陣営に与せず(身を引く)、中立の立場を守ったグループに由来すると言う説

④ウマイヤ朝時代においてハワーリジュ派が突きつけた信仰と行為の関係に関する神学的問題についてハワーリジュ派や当該派に反対するムルジア派のいずれにも与しなかった(身を引く)グループに由来するという説

他にも幾つかの説があるが、伝統的通説としては後代のアシュアリー派の神学者であるシャフラスターニーが伝える①の説が行われてきた。
又、ムアタズィラ派の起源に関しては、伝統的には上記の①説と同様、シャフラスターニーが報告するワーシル・イブン・アターウに由来するとされてきたが、今日では疑問視する学者も多い。又、欧米の学者の中にはウマイヤ朝末期の政治的混乱の最中におけるアッバース家の運動と関連付ける説を唱える者もいる(※1)。実際の所、ムアタズィラ派の起源は判然とはしないものの、ただ、ウマイヤ朝時代から登場してきた様々な神学的思潮を理性的思惟により統一しようという意図があったのは確かな様である。
※1:H.S.ナイベルグはワーシル・イブン・アターウを反ウマイヤ朝パルチザンと見做し、ワーシル・イブン・アターウや初期ムアタズィラ派の思想をアッバース朝の政治的イデオロギーであるとした(1953年)。

3 略史
先述の通り、ムアタズィラ派とはほぼ共通の基盤と傾向を有する複数の学派の総称の様なものであるが、9世紀の学者フワーリズミーは以下の6つの学派に分類した(※1)。

①ワーシル派
 ワーシル・イブン・アターウを祖とする学派。ワーシル・イブン・アターウの師であるハサン・アル・バスリーに因んでハサン派と称することもある。

②フザイル派
 アブー・フザイル(849年没)を祖とする。バスラが拠点。

③ナッザーム派
 イブラーヒーム・イブン・サイッヤール・アル・ナッザーム(845~846年頃没)を祖とする。

④ジャーヒズ派
 アムル・イブン・バフル・アル・ジャーヒズ(868年没)を祖とする。

⑤マーマル派
 マーマル・イブン・アッバード・アル・スラミーを祖とする。

⑥ビシュル派
 ビシュル・イブン・アル・ムータミルを祖とする。バクダードを拠点とする。

ムアタズィラ派はアッバース朝の勃興(749年)とともに盛んになり、アッバース朝の学芸振興策、それに伴うヘレニズム諸学問の流入の影響を受けてムアタズィラ派は思索に磨きをかけ(※2)、諸学派は互いに威勢を競い合った。
ヘレニズム的教養を我が物とし、自らもムアタズィラ派神学を修めていた第7代カリフのマームーン(在位813年-833年)がムアタズィラ派をイスラームの公式神学とする事で同派は絶頂期を迎えた。ムアタズィラ派が公式神学になる事でアッバース朝の要職はムアタズィラ派系の人々によって占められる事となり、ムアタズィラ派のウラマー達はイスラームを同派の教義で統一すべく異端審問所(ミフナ)(※3)を設置し、同派の教義に反する思想や言論を弾圧していった。
ところで、ムアタズィラ派の理性主義神学が隆盛を極めていた最中においても神の人格神としての側面を強調し、又、『コーラン』やハディースの伝統を守ろうとする考えは、特に一般大衆のレベルで根強く残っていた。スンニー派イスラーム法学の一派ハンバル派(ハンバリー派)の祖であるアフマド・イブン・ハンバル(855年没)はそうしたこの時代の伝統的イスラームを代表するウラマーであった。彼はその学識、清貧、敬虔、剛毅さで大衆の人気を集めていたウラマーで、イスラームの伝統的信仰を代表してムアタズィラ派神学を拒否し、『コーラン』やハディースを神意の現れとして、極力、そのままで受け入れるべきであり、それらに理性的論証を差し挟むべきではないと主張した。それ故、アフマド・イブン・ハンバルは捕らえられ、投獄されたが、それでも自説を曲げる事は無かった。
アフマド・イブン・ハンバルの登場以後、伝統的イスラームが徐々に息を吹き返し始め、第10代カリフのムタワッキル(在位848年-861年)はマームーン以来のムアタズィラ派尊重の方針を転換し、伝統的イスラーム尊重に切り替えた。その結果、ムアタズィラ派は政治的に敗退し、伝統的イスラームに対して今度は守勢の位置に立たされたが、伝統的イスラームの側のウラマー達は、ムアタズィラ派とは異なり、自分達の立場を理論的に擁護する術を殆ど備えていなかった上、論駁の術を身に付ける事自体を非イスラーム的として警戒していたから、理論レベルではムアタズィラ派に対抗する事ができなかった。
しかしながら、やがて、伝統的イスラーム陣営においても理性的思惟を駆使しながら『コーラン』やハディースを擁護しようとする立場が登場し、アシュアリー派神学の祖アブー・アル・ハサン・アル・アシュアリー(873年-935年)やマートゥリーディー派神学の祖アブー・マンスール・アル・マートゥリーディー(944年没)らはかかる立場から伝統的イスラームを擁護する神学を創始した。
かくしてイスラーム思想界は、ムアタズィラ派神学と伝統的イスラームを代表するハンバル派(ハンバリー派)法学、アシュアリー派及びマートゥリーディー派神学(※4)による激しい三つ巴の戦いが行われ、ムアタズィラ派からも巨匠カーディル・アブドゥル・ジャッバール(1025年没)、アブー・フサイン・バスリー(1044年没)、アル・ザマフシャリー(1144年没)といった錚々たる学者を輩出したが、ムアタズィラ派自体は政治的に次第に追いつめられてゆき、最終的には伝統的イスラーム陣営が政治的に勝利を収めて正統派としての地位を獲得し(※5)、今度はムアタズィラ派が徹底的な弾圧の対象となった。その結果、ムアタズィラ派の論書は、今日、その殆どが失われてしまったものの(※6)、一方でその財産は完全に消滅した訳では無く、シーア派神学に引き継がれていった(※7)。
※1:この他に学派の主要拠点に基づいてバスラ派とバクダード派に分類する説もある。

※2:ムアタズィラ派とギリシア哲学との最も初期の接近例はフザイル派の祖アブー・フザイルのケースである。
彼はイラク地方のバスラの生まれで、馬の飼料関係の職を生業とする家に生まれた。40代になると、メッカに巡礼し、其処でシーア派の学匠ヒシャーム・イブン・アル・ハカムと出会い、論争を行った。この時、彼はヒシャーム・イブン・アル・ハカムを論破すべくギリシア哲学を学ぶ必要性を痛感し、その学習に打ち込んだ。この時の経験がムアタズィラ派の理性主義的方向を決定づけたと考えられている。
上述のアブー・フザイルの例に見られる様に、ムアタズィラ派の学者達はイスラーム世界の拡大とともに流入してきたギリシア哲学と接触し、その成果を批判的に摂取するとともに、イスラームの信仰を守るべく、ギリシア哲学自身に対して、更にはキリスト教神学、ゾロアスター教やマニ教の二元論に対して論理的手法を駆使してこれらを反駁しようとした。その結果、彼等は自ずとイスラームの合理的解釈を徹底的に推し進める事になり、その過程でムアタズィラ派の神学は期せずして哲学に接近する事になった。だが、同時に伝統的なイスラームの信仰(例えば、ムスリムは来世において神を見る事ができるという信仰。)と対立する事になり、ムアタズィラ派は伝統的信仰を支持するムスリム達の憎悪と反発を買う事になった。

※3:キリスト教とは異なり、イスラーム史において異端審問所の類は殆ど登場しないが、これはその数少ない例の一つである。この時の異端審問所(ミフナ)では『コーラン』創造説の肯否が踏み絵として用いられたと言われ、アフマド・イブン・ハンバルは『コーラン』創造説を否認したが故に投獄された。

※4:アシュアリー派神学は法学においてはシャーフィー派やマーリク派(マーリキー派)と結びつき、マートゥリーディー派神学は法学においてはハナフィー派と結びついた。一方、ハンバル派(ハンバリー派)の方はそもそも神学に対して消極的である。

※5:11世紀に勃興したセルジューク朝トルコはアシュアリー派神学を公式神学として保護奨励した。

※6:ムアタズィラ派の論書は正統派の執拗な抹殺により、その殆どが失われてしまったが、20世紀に入り、イエメンにおいてカーディル・アブドゥル・ジャッバールの『ムグニー』や『ムアタズィラ派五原理解説』等の写本が発見された。これらの写本はアシュアリーの『イスラーム諸学派の所説』における報告、その他シャフラスターニー、イージー等の後代の正統派の神学者の報告とともにムアタズィラ派の思想を知る重要な手がかりとなっている。

※7:ムアタズィラ派の財産は12イマーム派をはじめとして、イスマーイール派、ザイド派等のシーア派に引き継がれ、シーア派神学の理論武装に貢献した。嘗てザイド派イマームの国家であったイエメンにおいてカーディル・アブドゥル・ジャッバールの著作などムアタズィラ派関連の写本が発見された事実は後期ムアタズィラ派とシーア派との関連を物語っている。