歩いていれば

テーマ:

家から駅のほうまで小さな目的、例えば本屋さんに行ってみる…というようなことだが、その道すがらにも「目が休まる」ことの多い季節になった。

 

 

 

ああ、これは昔、西巣鴨の公務員アパート時代の昔も含めてだが、育てたことがあるなあ……

 

という花も多い。

この生垣↑の所を通ると、辛かったあの時代のことが思い返されたりする。

 

朝夕の通勤時に、かみさんは駅まで車で送り迎えしてくれた。

 

それが不可能になってしまった翌年のことだから、2003年の春のことになる。

 

駅までの道をとぼとぼと歩いて行くことになった朝には、この赤い新芽を眺めながらのわずかな時間になる。

 

もっと芽が出たばかりの頃だったから、春はまだ深くはなかった。

 

赤々とした芽が、前年までの青い葉を次第に凌駕していく時期だった。

 

ここを通ると何だか息苦しくなってくるように感じた。

 

ああ、こんな葉っぱだって生き生きと、精一杯命をつなげよう永遠に生きて行こう、としているのだなあ……。

 

そんな思いが通るたびに湧いた。

 

もの言わぬ植物だって自分の分量を知り、愚痴も文句も言わず生きて行こうと頑張るのだなあ。

 

そういった気持ちだっただろうか。

 

それに比べて………。

 

と、そこからは「今の自分」の情けなさ、流されている、覇気はどこを探しても見つからないのではないか。

 

そんな風な戸惑いとも、これではいけないという自身への𠮟咤激励とも取れるような気持になったのだが、

 

自分で自分を励ましてもどうすることも出来ない、という諦めに近いような気も同時に起きていた。

 

起きていただけではなく、それに支配されて、そこからとびぬけて行く気持ちにはなれなかった。

 

車での通勤時代にはこの道は通って行かなかったし、赤い新芽の勢いに気づくこともなかったのだった。

 

歩いてここを通り過ぎるのに、ものの1分か2分だろう。

 

今はもうそんな情けないだけの気分で落ち込むこともなくなってはいるが、この「赤い芽の季節」にだけは、そのことを忘れて通り過ぎることが出来ない。

 

あれから仕事も変わり、住むところも変わり、色々なことがあった。

 

あったことの大部分のお蔭で、「意気消沈に沈むだけ」の人生にならずに済んだ。

 

良かった、とだけで決めつけることは出来ないが、ここに来てからは、「それが自分の人生」と緩やかに決めても、胸の動揺というか揺らぎは小さなものになるようになった。

 

帰りにはまた違う葉っぱや花を眺めて、

 

 

かみさんは、どちらかというとこんな小さな、静かな感じの花が好きだったなあ、

 

と、何度も思い返しているそんな気持ちがまた浮かんできて玄関にたどりついた。