ウクライナ戦争は反転攻撃の中止後もアウディウカ・マリンカを中心にロシア軍による継続的な攻撃が続いているけれども、ザポリージャへの経路であるヘルソンの失陥はロシア軍が所期の作戦目的の一つを達成したことを示している。

 ヘルソン付近では動きがあり、少数の部隊が確保したクリンキ周辺の戦闘は意外な展開を見せている。月末にロシアの戦闘爆撃機5機が立て続けに撃墜され、これまで航空戦では守勢一方だったウクライナの防空に変化が見られる。S300ミサイルやパトリオットなど様々な武器の名前が挙がっているが、F-16戦闘機がすでに実戦配備されているとする説もある。

 先月から行われているクリンキの戦闘は実のところ不可解な点が多く、作戦は12月のゼレンスキー訪米に合わせて行われたという説もあり、援助が先細りになっているウクライナの政治アドバルーンという見方も根強かったが、歩兵中心の割には迎撃したロシア空挺部隊の戦車、装甲車が多数撃破されており、より後方の司令部施設や輜重部隊の損害も多く、当初はヘルソン河畔に並べた長距離砲で対岸から砲撃支援を受けているものと思われた。カフホカダムの決壊があったとはいえ、ドニエプル川は幅1キロの大河で、しかもヘルソン周辺は湿地帯で重量のある装甲車両は走行できず、河川や水路を渡って東岸に重装備は搬入できないことがある。

※ 付近を走行していると思しき装甲車両の映像はある。

 長距離砲で支援といっても、遠方の目標を砲撃するには弾着観測が必要になる。旅団配備の榴弾砲の射程は概ね30キロ、MLASなどロケット砲は70キロの射程を持つが、地球は丸いので砲手がその距離を見通すことはできず、航空機やドローン、あるいは観測タワーなどで目標を捕捉する必要がある。観測タワーは論外として、ドローンのみで誘導できるものかどうか甚だ疑問に思っていた。

 Su-35の撃破に至っては戦線から40キロ後方で、これは強力なレーダーを持つ早期警戒管制機の存在を示唆していたが、同様の攻撃が可能なら以前にも行われていたはずが、反転攻勢の間中、ウクライナ軍はロシア軍機をほとんど撃墜していないことがあり、ロシア機を最も多く撃墜したのはワグネル軍団だったということがある。ウクライナ軍の装備に何らかの変化があったことはありそうなことである。

※ クリンキ周辺ではロシア軍のドローンが無力化されているという報告もあり、最近開発された対ドローン用ティーザー銃など新兵器が投入され、それが小規模で装備も貧寒な部隊の想定外の抗戦に繋がっていると思われる。ウクライナ軍はクリンキではアウディウカ・マリンカとは異なる戦術を採用しているようだ。

 クリミア半島の北、ウクライナのオレスキー演習場を中心とする地域はロストフからの距離も適度にあり、ウクライナ軍がロシア航空機の逓減作戦を行うには適切な場所と以前書いた覚えがあるが、この空域ならウクライナ空軍はAWACSの空中管制を受けることができ、長射程の誘導ミサイルをロシア軍機の視程外から投射できる。対抗できるのはミグ31戦闘機しかなく、この戦闘機の撃墜が報告されればウクライナ軍が冬季の航空作戦を志向したことが確認できるだろう。

※ ウメロフらのEU諸国に対する働きかけを見ると、クリンキは新兵器・戦術の実験場という位置づけかも知れない。第35海兵旅団が参加しているという報告があるが、新設旅団もあるようで、参謀報告もやや不明瞭なため、大統領直轄の戦区になっている可能性がある。

 ロシア軍はマリンカを制圧したが、この街はすでに廃墟で、ウクライナ軍は郊外に撤退し、戦力の温存を図っている。一連の戦いの犠牲は8万人で、例によってロシア軍には珍しくもない、人命を浪費する戦いの一つである。

 ウクライナではゼレンスキーと総司令官ザルジニーの不和が伝えられているが、これはレズニコフの後任の国防大臣ウメロフに問題があるように見える。ザルジニー本人が指摘したように、軍司令官に帷幄上奏権はなく、徴兵の要求も法案として提出するのは国防省の仕事で、法制化は司令官の仕事ではないことがある。なお、ウクライナの国防大臣は文民で、旧日本軍みたいな軍人の指定席ではない。

 軍司令官が大統領に直談判して兵や装備を要求することはウクライナの制度ではありそうにない。記事が対決しているように見え、また将軍が大統領の座を伺っているようにも見えるのは、ロシアの陰謀か、ISWの軍事ヲタクの見識がその程度だからという見方もできる。

 

(補記)

 「質の高い兵は指揮官の無能を補うことはできるが、最終的な勝敗は指揮官の優劣で決まる」という格言があるが、ウクライナ軍の戦いぶりを見ていると非常に整然とした戦闘を行っている部隊もある反面、思い付きのような作戦で不必要な犠牲を出している例も数多く見られる。

 

※ こういうのは野球チームなどでもありそうな気がする。

 

 ドローンやIT技術の活用など、ウクライナ戦争には従来の戦争に見られない新兵器、新機軸が投入されているが、技術的な優位に目が眩み、効果的な活用やその本質の見極めができないまま戦闘に投入され、なまじ戦果を挙げてしまったことが、ここに来て戦略的な齟齬を来しているように見える。

 

 そのしわ寄せを受けているのが現在クリンキに投入されている兵士たちで、貧弱なゴムボートに乗せられ、砲弾が飛び交う中、対岸に上陸して戦闘を続けているが、良く言って対ロシアの疑似餌であり、上陸したという事実だけが重要で、対抗する武器も与えられないまま砲弾やロケット弾、滑空爆弾の犠牲になっているのを見ると、もっと良い戦い方はあるように見えるし、支援目当てのワシントンへの政治アピールという目的が犠牲を正当化する理由として適切なものかという疑問も感じる。

 

 だが、彼らが東岸にいるせいでロシア軍はムキになって大部隊を投入し、主として長距離砲とドローン(あるいはF-16)の攻撃で多大な損失を強いられていることがある。ここで軽兵部隊の果たしうる役割はほとんどない。こういう戦闘に従事させれた彼らの自信や士気の喪失には無視できないものがある。

 

 しかし、このような戦い方では最終的に勝利するのはロシア軍であろう。ドローンや電子戦術に対抗策が施された場合、軽武装で背後は河川という死地にあるウクライナ部隊には全滅以外の途はなく、今のところ、装甲車以上の戦力を送る装備も方法もないことから、作戦は失敗が運命づけられている。戦闘の帰趨を決するのは今の昔も良く訓練された部隊と、思慮深く戦術に熟達した指揮官である。

 

 ウクライナのヘルソン部隊については、実質的な指揮官のプロファイリングをする必要を感じる。私は軍事専門家ではないので、ウクライナ軍指揮官の資料は手元にはないが、このような作戦を立案する人物については、性格傾向を分析しておく必要がある。着想に比べ実践が粗雑な点、おそらく軍事が専門の人物ではないように思う。

 

 前回は感想らしい感想を書かなかったが、昨年のシーズン5から前半と後半に分かれて公開されたシーズン6はそれまでの作風からするとやや冗長で退屈な話である。制作途上でエリザベスが崩御したこともあり、特に後半は大幅なリテイクが噂されていたが、そんなことはなく、かねてから評判通りのラストになったことはやや落胆もするし、話自体はそれなりにまとまっていたので、後の女王(17年もある)をテーマにした続編を期待する向きもあるが、私としてはいかにもイギリス人らしい終わらせ方だと思っている。作者のピーター・モーガンのしたり顔が目に浮かぶようだ。

 視聴を終えた後に思い出したのは全然王室の話ではないが、田河水泡の「のらくろ」である。実は後日譚があり、軍を辞めたのらくろが様々な職業を経て喫茶店の一店主に落ち着く話がある。実は私はこちらの話の方が好きである。

 事情を話すと戦前に大人気だったのらくろは日中戦争の戦況悪化で軍部から睨まれ、連載中止の憂き目に遭っている。これは野良犬だったのらいぬ黒吉(黒犬である)が一兵卒として猛犬連隊に入隊し、持ち前の機知と機転で士官にまで昇進する話で当時のサクセス・ストーリーだったが、「犬が軍人なのはけしくりからん」という当時のしみったれた(戦況悪化による)憲兵の指図で中断されたものらしい。が、戦後になって再開され、ストーリーは以前とはまるで違うものになった。実を言うと、以前の話を知っていると読むのは少しつらい話である。

※ 作品によると大陸にある豚の国にいじめられていた羊の国を助けに大陸に渡ったのらくろたち犬の国は豚勝将軍の豚軍に勝利するが、豚の国の背後にいた熊の国の陰謀で猿の国との戦いに巻き込まれる。猿国とのらくろたちの戦いは決着が着かず、双方とも疲弊して休戦する。リーダー同士の話し合いで双方とも武装解除することになり、猛犬連隊は解散して、解雇されたブル連隊長やのらくろたちは市井に戻って一から出直す事になり、これが後期のらくろの前日譚になる。

 

※ のらくろは猛犬連隊時代は階級章とベルト以外衣服らしいものを身に着けていなかったが、除隊後は服を着るようになるなど、作品の雰囲気はかなり違う。


 のらくろは猛犬連隊では大尉まで昇進したが、市井の彼は天涯孤独の一介の浮浪者にすぎず、かつての部下の中には彼より出世した者もおり、世渡り下手の彼は様々な失敗をし、自分が世間知らずであることを思い知らされる。威厳のあったのらくろの上官ブル連隊長も借金で労働者の吊し上げを受ける始末で、それまでの世界観がガラガラと崩れ去っていく所が人によっては受け入れがたいものである。噛めば味が出るスルメのような話が多く、最後は居候していた下宿屋の娘と結婚してハッピーエンドで終わるが、披露宴では参集したかつての仲間たちが様々な人生を歩んでいたことが明らかになる。

※ 田河が続編をこういう話にした背景には、戦前に彼の漫画を読んで出征した読者の子どもたちへの責任感があったと思われる。後編でののらくろの年齢は年表によると30代なかばから40代で、中年と言える齢であり、田河はいい歳をして慣れない世間でさまざまな挫折を経験するのらくろを通じ、新しい読者ではなく、復員したかつての読者にエールを送っていたのだろう。この読者への視線の暖かさが作品を単なる戦争活劇物とは一線を画したものにしたことがある。

 田河は優秀なストーリーテラーであったことから、こういう話にしたことには狙いがあったに違いない。ここでのらくろがかつての知識を活かし、再編された猛犬自衛隊に入隊して活躍する話では以前と同じであるし、それでは自身に何の内省もなく、老いてサラリーマン人生を続ける島耕作と同じになってしまう。弘兼兼史の作品はたぶん来世紀まで残らないだろうが、のらくろは多分22世紀でも残るだろう。そのくらいのストーリーの大転換をしたことがある。こういう例を私は他に知らない。

 シーズン6に話を戻すと、この話ではモーガンは女王から虚飾を削ぎ落とし、ごく平凡な80歳の老女の視点で話を構成している。彼女が思い出すのはマーガレットと市井に繰り出した60年前の光景であり、ほんの僅かの期間だったマルタ島での一主婦としての思い出である。王室やイギリスの未来について考えることはなく、自分を傍観者とし、荘園で趣味の馬の世話をしつつ、時代遅れの人間として日々を過ごしていることがある。

※ そういうコンセプトから、女王が存在感を示したロンドン・オリンピックやプラチナ・ジュビリー、コロナ禍における2019年の演説は対象にならなかったと思われる。作者の関心は「偉大なエリザベス」ではなく、一女性としてのエリザベス・ウィンザーである。

 実際のエリザベス女王は私生活ではウィットに富んだ人物として知られていたが、重厚に構築されたドラマで最も彼女らしいスピーチをしたのは息子の結婚式だった。こういった話は、たぶんシーズン1~5では容れる余地がなかったと思われる。

※ 女王について取材をしていれば、エリザベスが類まれなユーモアの持ち主であることは容易に分かることだが、王冠の重圧と責任感をテーマにしたドラマでは扱う場所がなかった。ラストのスピーチは作品の完全性を求めるためにどうしても必要な場面だった。

※ 同じようなユーモアのある場面は6-5の英国婦人会のスピーチでも描かれており、ここではエリザベスの方が後にスピーチしたブレアより岩盤支持層である婦人たちの心を掴んでいた。エリザベスが聴衆を湧かせる場面はシーズン6にしかなく、同シーズンの顕著な特徴となっている。

 そしてダイアナの死については、彼女の取った手段はテレビやラジオを撤去しての引きこもりという後ろ向きのもので、同じような状況に直面すれば、同じような齢の女性は同じように困惑するだろうということがある。その当たり前のことをシーズン6では躊躇なく映像化している。

「ねえ、そこのおばあちゃん、あなたがこんな目に遭ったら困るでしょ、彼女も同じなんですよ。」 それがたぶん、モーガンの言いたかったことである。

※ 同様に息子を殺されたモハメド・アルファイドの心ない非難に対しては、女王である彼女の地位は小揺るぎもしないにも関わらず、動揺する姿が描かれている。

 トニー・ブレアは以前モーガンが脚本を書いた「クィーン」では洗練された貴公子だったが、クラウンのブレアはとにかくいやらしい。ギラギラしたニヤけ顔が不気味な男で、謁見室での態度も歴代首相の誰よりも図々しい。が、それが彼女から見た新世代首相の像なのである。そして、彼の語る内容にほとんど関心がなく、幾分の不快ささえ感じ、湾岸戦争や911、イラク戦争にほとんど関心を示さないのも裸の彼女がそのようなものだからである。そして妹のマーガレットはそれまでの不養生が祟り、脳卒中で苦悶のうちにその生涯を終える。

※ 実際のエリザベスはこれらの事件に対してイギリス君主らしい態度を示しており、節度のある対応をしている。例えば911では衛兵交代式でアメリカ国歌の演奏を指示し、イラク戦争ではブレアと反対の立場を取ったとされ、首相経験者としては異例なこととして、2022年までガーター勲章を与えなかったことがある。

※ エリザベスが時の首相と対立した事件は4-8のサッチャーとの対決があるが、この時は一話丸々を両女性の駆け引きに割いている。それに比べるとシーズン6の描写は非常に淡白である。

 実際のエリザベスがドラマで描いたような人だったか、あるいはもう少し違う像があるのかは、もう少し時代を降らないと分からない。ビクトリア女王も後年の評価では当時言われていたほどの偉大な女王ではなかったことがある。その判断の余地を残した点、シーズン6はそれ自体ではどうということのない話だが、ザ・クラウン全シリーズにおける不可欠なピースを構成していることがある。
 

 Netflixの看板番組「ザ・クラウン」がシーズン6で完結したけれども、撮影途中で主人公の女王が崩御したことがあり、ラストは変更が噂されていたが、作品を見ると結局当初の構想通りに制作したようである。

 下馬評の通り、ラストはチャールズとカミラの結婚式で終わり、エリザベスが新婦に優しい言葉を掛け、家族として認めるところでラストとなる。女王が崩御したのはその17年後のことである。ウィリアムの結婚は5年後で、メーガンは影も形もなかった。私としてはもう少し後までやっても良かったのではと思える所がある。

 ドラマでは克明に描いているけれども、イギリス王室の役割は時代によって変化している。かつて通用したプロトコルが10年後も通用するとは限らず、また、ダイアナやウィリアムなど新しい世代の参入もあり、エリザベスの治世は安定を体現しつつも変革を求められる矛盾と闘うものになった。

 即位当初の彼女の役割は凋落する大英帝国を元首として支えるもので、即位後に半年掛けて行われたコモンウェルス巡幸では顔に注射を打ってまでして笑顔を見せ続け、オープンカーでの炎天下のパレードに耐え続けた。素顔を見せることは許されず、存在感だけで威圧するスタイルは1961年のガーナ訪問が最後になる。エンクルマとのダンスで彼女はガーナをコモンウェルスに繋ぎ止めたが、すでに帝国の凋落は誰の目にも明らかなものになっていた。

 そのスタイルが通用しなくなったのが1966年のアバーファン炭鉱事故で、ウィルソン首相に悲惨な炭鉱事故に同情を示すことを求められ、渋々同意したものの、女王の対応の遅れは非難を呼ぶものになった。王室の秘密主義についてはすでに1957年にオルトリナム卿による批判があったが、人間性の発露は彼女には未知の分野で、その後もせいぜいコモンウェルスの首長としてジョークを飛ばす程度にとどまったことがある。

 ダイアナの事故死によって、彼女における公人と私人の矛盾は臨界点に達し、葬儀をスペンサー家に委ねた対応は私人としては必要十分なものだったが、イギリス国民はそれを許さず、彼女は祖母として、また元首として離婚した王太子妃に弔意を示すことを求められた。ここで英帝国でもサッチャーでもない新しいスタイルが必要になり、エリザベスは三度目の変身を求められることになる。

 ドラマを視聴し続けていると、王室の役割が徐々に縮小していき、「滅びゆく種族」、「消えていく存在」と揶揄されるようになり、制作者自身も王室の存在意義に疑問を持っている様子が伺える。ダイアナの葬儀は世界中からセレブや芸能人が参集し、あまり王室らしくないものであった。新国王のチャールズは自然保護や社会福祉に関心を持ち、会社を保有する知的な篤志家として振る舞っているが、そういう存在なら王室である必要はないこともある。

 ドラマの最後でチャールズの結婚を見守りつつ退位を考えた女王が思いとどまった理由には、英国国教会の首長としての立場がある。王権は神から与えられたものであり(王権神授説)、退位は義務を放棄する大罪であるという考えである。会話中で「自転車君主制」と揶揄されていたベルギーやオランダの国王とは異なる所であり、結婚式の後、教会の祭壇でエリザベスが神に祈る場面はそのことを確認するものである。おそらく神の啓示を待っていたと思うが、眼前にあったのは自分の棺桶だった。

 何十年か百年か後、この物語が「最後のイギリス国王」の物語として語られるのか、その後に現国王も含む数多いロイヤル物の一つとなるのかは分からないが、イギリス王室史においてチャールズという名前は不穏な響きを持つ。1世は断頭台の露と消え、2世は国外追放の憂き目を見た。どちらも国王としては歴代より有能で知性もあったが、ピューリタン革命や名誉革命などで国民の離反を招き、悲劇的な最期に繋がったこともある。3世がその轍を踏むかどうかは誰にも分からないが、ドラマではその時代まで話が及ぶことはない。

 

 ザ・クラウンについては60話も視聴したので、もう少し書こうと思う。

 

 反転攻勢の終了を受け、ウクライナ情勢の定期報告は終了と書いたが、フォローを止めたわけではなく、定期的な情勢観測は続けている。が、今月に入ってからのロシア軍の攻勢を見ると、まるで壊れた蛇口のように、散漫で犠牲の多い突撃を繰り返している。一時期は装甲車も枯渇し、目標をアウディウカとマリンカに絞ったように見えたが、それもつかの間で、ロシア軍は南部を含む各戦線で攻撃を続けている。


※ 猛攻というほどのものではなく、多くは思い付き程度の襲撃である。
 

 ロシアの人的損失は反転攻勢の開始当初は一日700人台だったが、このところは千人を超えており、1,300人という日もあった。いつまで経っても攻撃が止まないので、弾薬が枯渇したウクライナ軍は戦線縮小を考えており、砲撃戦は低調になっているが、しばらく使われていなかったジャベリンミサイルを倉庫から持ち出して反撃しているのでロシア戦車の損失はむしろ増えている。

 ジャベリンは射程数キロの携帯式の自立誘導式ミサイルで、HEAT弾で戦車の装甲を焼き切って被爆させる兵器だが、携帯といっても一見してかなりの大きさがあり、弾頭も小学生の子供くらいあるので、砲撃戦たけなわの頃は使えなかったと思われる。これが出てきたということは砲弾枯渇はロシア側も事情は同じと見える。一昨日はロシア戦車44両が一日で撃破された。20日までの10日間の戦果もロシア軍の攻勢が最も苛烈だった10月末に近い数字である。

 撃破されたロシア戦車には多数の爆発装甲が装着されていたことから、旧型のT-62かそれ以前の車体と思われる。これらの戦車は設計が古いため装甲が薄く、ウクライナもロシアもアタッチメント式の装甲で防御を加重している。これもなくなったら両軍は石でも投げ合うしかない。が、戦況を見る限りウクライナ軍に厭戦や士気の低下といった様子は見られない。国際報道とは大きく違う所である。

※ 国際報道ではロシアの調略戦が成功しており、ウクライナはジリ貧で欧米の援助は枯渇しているという、ロシア有利の報道がなされている。が、ここ3ヶ月でロシア軍がありえないほどの損失を出したことについては、ロシアが攻撃を続けていることにより、「防戦一方のウクライナ」という悲観的なタイトルに書き換えられている。

 大統領ゼレンスキーの支持率はウクラインスカ・プラウダの報道だと77%で、以前の90%より低落しているが、それでもダントツに高い支持率である。NYタイムズのクラマー記者は62%とし、ザルジニーが88%としているが、同じキエフ社会科学研究所(KIIS)のデータを使いながら結果が異なるのは、前者が政治家の信頼に対するアンケートで、後者がその前日に公開された国家機関の信用に対するアンケートであることによる。


ウクライナ政治家の信頼度調査(KIIS)

 クラマーが指摘したのは「大統領(機関)としての」ゼレンスキーの信用度であり、「最高司令官(機関)としての」ザルジニーである。ほぼ同日に公開されたレポートでクラマーがなぜこのデータを選んだかは分からないが、私自身はコイツはこういうことをする奴だとハナから信用していなかったことはある。


NYタイムズの引用はこちら、見ての通り政府機関の信頼度である

※ 同じような信用おけない記事を書く記者にはForbes誌のDavid Axeがいる。

 ザルジニーは報道を受けて政治への野心はきっぱりと否定し、ゼレンスキーと同席した作戦会議の様子などを公開している。ゼレンスキーが鼻に付いてきたアメリカの新左翼は日本のそれと同じく自分たちだけが賢いと思いこんでおり、この将軍の類まれな聡明さが分からないようだ。彼はマクレランではない。

※ アメリカの記事を読んでいるとある時はウクライナ寄り、別の時はロシア寄りと一定していない。ウクライナが勝ちすぎるのは困るという意見が一定の説得力を持っているようだが、どうしてそうなるのかは良く分からない。

 KIISの調査ではゼレンスキーも含め、対象となった政治家は昨年より軒並み評価を下げているが、クリチコやレズニコフがとてもゼレンスキーに歯が立ちそうにないことは措くとして、一人評価を伸ばしているのはオリガルヒで篤志家のポロシェンコである。が、前大統領でもあり、これがゼレンスキーの対抗馬になる可能性はごく低い。支援国の同意も得られないだろう。

 ほか、ウクライナ国家公安庁の調査で、同国に撃ち込まれたミサイルに用いられた外国製コンポーネンツの75%が米国製の部品で、4%が日本製、3%がドイツ製であることが判明し、多くは誘導装置など高度な機能を有する部品であることがある。ミサイルの主要な機能にロシア製の部品はほとんど使われていないことがあり、キンジャールミサイルにしても高性能ドローンランセットにしても、対立している欧米や日本製の部品なしでは機能しないことがある。欧米は対ロ制裁の強化を公表しているが、実効性については相変わらず不確実である。

 

※ このザル制裁については、プーチンとその取り巻きが自身も言っているようなロシア的人物ではなく、旧ソ連邦の信奉者でもなく、大ロシアのレーベンスラウムの問題でもなく、本質的に彼らがウクライナを支援している支援国の寡占資本家で、ケイマン諸島に隠し財産を持ち、多くはダボス会議の常連である人々と同じ価値観、同じ倫理観、同じ優生思想の持ち主と考えるのがいちばん筋が通るように見える。プーチンとイーロン・マスク、柳井正といった人々の思想信条に本質的な違いはない。ただ、住んでいる国が違うだけである。

 

 以前にYahoo!NewsExcluderを紹介し、禁則サイトのリストを挙げたけれども、リストはその後も増え続け、19個が追加されている。

 

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 これだけ制限したらさぞ困るだろうと思われるかもしれないが、「別に困ってない」というのが本当の所で、制限しても世情は分かるし安倍疑獄事件の話もちゃんと入ってくる。そこで分かるのは「(情報を)広げたい人間はメディアを選ばない」ということ。

 

 どんな内容にしろ、伝えたい人間は尾ヒレを付けて情報を様々な所にバラ撒く、請負業者もおり、何でも載せるメディアやインフルエンサー、フリーランスなどに同じ内容を書かせ、どんなくだらない内容でも必ず届くように仕向ける。情報の質は問題とされない。

 

 そんなことをしなくても、メディアそれ自体に信頼があればこちらはそれを信頼するし、それに基づいてコメントもするのだけど、文春のような持ち込みが基本のメディアに記事の質の担保を求めるのは土台無理な話だ。資本力のない週刊誌、読み捨て書き捨てのネットニュースも同じ、報道機関のラベルだけで信用などできない。

 

 このブログでは行きがかり上ウクライナ戦争を扱うことが多いが、これなどは特に注意を要する。有名メディアでも変な内容を載せることが少なからずあるからだ。なので、こういったメディアの場合は先ずライターの経歴を見る。

 

 

 先のゼレンスキーの訪米を揶揄していた記事の著者はクレマーという人物で旧ソ連圏担当の記者だが、ソビエト後の経済改革についての記事も書いている。ロシアの権力機構に関する記事も多数物しているが、一見してプーチンに近すぎると感じる。こういった場合、記事は少し警戒して読む。

 

 キエフやモスクワの駐在歴のある記者や識者も注意リストで、それは見るべき内容もあることはあるが、形勢が不利になったらすぐに掌返しなど当局に踊らされているのではないかと思える行動をすることもある。ピューリッツァー賞の受賞歴の有無など関係ない。白黒で見るならば灰色である。

 

 

 情報源にロシアブロガーの記事を無邪気に信用しているメディアも要注意で、基本的に私はISWを信用していないけれども、中にはロシアブロガーに情報源以上の敬意まで払っているライターもいるから始末が悪い。

 

 これらの記事を書く人物については、在ロシアの履歴のある人物はクレムリンにプロファイルが把握されていると考える方が良く、言い換えれば「操作可能な人物か否か」が判断基準である。秘書が殺されたり、家族が娘が毒針攻撃では政治家もピューリッツアー記者も筆が鈍るだろう。つい先々月もドイツの有名なロシア専門家の口座に5万ユーロが振り込まれた事件があったばかりだ。先日はプラウダの女性編集者が怪死したが、彼女はたぶん西側メディアに情報を流していただろう。ジャーナリストは人脈頼みの商売だ。

 

 署名記事ですらこういう扱いをしている。ましてや無署名の記事やブログの書き捨て文など全く信用に値しない。国防総省のような大組織でも、多国籍国家では親類にロシアやユダヤ人の親類がいる職員が必ずいる。

 

 さらに日本の場合は初報からかなり時間が経ってから報道することが多いので(特にNHK)、古い情報がこだまのように残響してしまい、最新の情報と混じってわけが分からなくなることがある。その程度も酌量する必要がある。

 

 一応基準として、ネットニュースの場合はある程度有名な新聞社で二社以上が同じ内容を報じている場合は事実と考えることにしている。日本は無署名記事が多いが、大手新聞社は外務省のように情報がピラミッド状に上がっていく仕組みなので、場合によっては外紙より信用できる場合もある。朝日と毎日が取り上げたら大丈夫だろうと考えることにしている。

 

 ただ、信用するのは事実の部分だけで、結論に至る道筋や論説の内容まで信用しているわけではない。それは別の事柄である。

 

 話を戻すと、単に情報を受け取るだけでなく、判断しないと脳に入れてはいけないということ。戦争のような騙し合いでは特にそうだし、最近では普通の情報さえそうなっている。

 

 手が空いたら続きを書くつもり。

 

 自民党のパーティー券キャッシュバックが政治資金規正法違反として取り沙汰されているが、もし金銭にラベルというものがあったなら、「キャッシュバック」と書かれた紙幣は全て無効にしてしまえば良く、仮に不正が起こっても、不正が利益にならないような仕組みを作れば良いのではないかという考えもある。

 もちろんそんなことはできず、不正に領得された金銭は受領者の財産と混和してしまい、区別がつかないものになってしまうので、不正に得た金だけを分離して始末することは不可能である。しかし、考えてみれば不思議な話である。「政治とカネ」と言うが、歴史を見るとカネと政治は必ずしも一心同体といった存在ではない。むしろ政治の方が後からやってきた。

 アルゼンチンで新大統領が選出され、中央銀行を廃してドル建てに移行するといった政策を発表したが、他国の通貨を使って経済をどう回すのか、我が国では400年以上経験がないだけにイメージしづらいものがある。不換紙幣の歴史も140年あり、国家の保証のない金銭の流通のメリットは理解できない。

※ この大統領にゼレンスキーがいち早く賛意を示し、就任式にまで出席したことは彼の国も弱い通貨フリヴニャを持ち、一部ドル建て経済が通用していることによる。

 が、歴史的に見れば中央銀行システムの方がごく最近であり、古から価値の交換には様々な媒介物を用いてきた。我が国では宋銭であり、中南米ではカカオである。ここで重要なのがお約束で、宋銭千枚で銀一貫、カカオ100粒でロバ一頭といった決まりごとを互いに共有することで商品交換の経済が始まったことがある。

※ 貨幣経済とは「お約束」であること。ちなみにウィキペディアではウサギ一羽でカカオ200粒らしい。こういったことを頭に入れて読むこと。

 ここで俺ルールで二千枚、80粒でロバ一頭と言い出す者がいたらどうなったか。古の世界ではごくシンプルに違反者は奴隷か追放、あるいは死刑とし、汚れた商材は国境の外に打ち捨てることで事なきを得た。小さな共同体の世界ではそれで十分だったし、古代ローマもその式であった。自治の時代は地域ごとに異なるが概ね数百年~千年以上続いた。そこに便乗し、入り込んできたのが王権である。王権とは刀やまさかりを手に、周辺諸部族を斬り従えてのし上がった武装集団である。当然、算盤勘定は得意ではなく、根底にあるものは暴力(Power)である。

 それでも、当事者の調停に立ち、揉め事を解決する王権の存在は地域社会の平穏に一役買った。商業には物々交換のほか、「王の平和」を乱さないというルールが新たに制定され、没収や罰金が新設されたが、従来の罰も併科され、債務者の引き渡しは王の名のもとに行われ、引き渡された債務者は以前のように奴隷として使役されたことがある。古の経済は実体経済の上に権力(王権)が載った二階建ての仕組みになっていた。王権がなくても経済は回る。王権や中央銀行は商業活動に不可欠な存在ではない。元々「政治とカネ」は一つ物ではなかったが、「王の平和」を通じ、互いに持ちつ持たれつの存在であったことはある。

※ 人頭税など封建権力が家産活動を維持するのに必要な収入は、これとは別のものとして考えている。

 ここで商業活動に介入した王権が商業そのものにはならなかったことには注意されたい。近代になっての社会主義国など、それを試みた例はあるにはあったが、今では全て失敗と見做されている。敵の首を刎ねる戦いと、利潤最大化を目指す商業はどこまでも別の倫理観、別の価値基準で測られるべき存在なのである。

※ 例えば政治活動に要する経費は原則タダ、パーティー会場の使用料などは原則無償(国庫で補填する)などとしたら、政治パーティーに会費など取れるだろうか?

 今頃になってそんな大昔の話はとなるが、パーティー券を販売し、その金で影響力を買うことは政治ではなく商業に属する。商売に熱中する自民党の議員は仕事以外の事柄に時間と精力を注ぎ込むパートタイマーといえる。この難しい時代にパートタイマーに政治をやらせていて良いものだろうか?

 今の我々には政治と財力を切り離して行われる世界はイメージしにくいが、本来政治とカネは各々ベクトルを異にするものである。それを明瞭に分離して議論できないのは、単純に政治家の質が悪いか、政治も国民もまじめに政治をする気がないかのいずれかであるに違いない。
 

(補記)

 ややまとまりの悪い文章だったが、「覚え書き」では文章をまとめる気はないのでそのままにしておく。我が国の政治家は金銭に貪欲だが、初期の啓蒙思想家の時代、所有権・・・物を支配する排他的権利、は、自由の変形物と理解されていた。フランス人権宣言が人民の自由と平等とともに財産権をも保障したのは、自由とは財産の所有によって表象されるものであり、財産のない人間には自由はないという考えによる。それから200年が過ぎ、GAFAに代表される新興資本家は巨万の富を背景に我が世の春を謳歌し、どの国でも格差が拡がっているが、そういった光景はこれら思想家にはどういったものとして映るだろうか。

 

※ 「財産の収奪=基本的人権の侵害」という認識は、個人の才覚が多少は反映する商事活動の性質もあり、自由主義諸国では全般的に低調だが、我が国では憲法14条を左派と結びつけて論じる傾向が顕著なため、物価高など生活の窮乏を人権と結びつけて考える傾向が忌避され、特に軽んじられる傾向があるように思う。

 

※ 上記の考えはあくまでも18世紀の啓蒙思想家の考えで、例えば仏教などには「出家」の概念があり、喜捨によって生活し、世俗社会から切り離すことで精神や行動の自由を得るという考えもある。

 

 前に「IQ155の召使い」というタイトルで、ChatGPTを初めとする対話型AIが自宅学習に役立つことを紹介したけれども、使うには少々コツが要るということも書いた。そこで外国語のほか、難関大学の入試問題を解かせてみた。

 結果はどうだったかというと世界史の正答率は5割ほどで、予め解答を持っていないと学習を進めることは難しい感じである。が、これは出題の方に問題がある。問題はポルトガル史で内容自体が学習指導要領を完全に逸脱しているし、ヴァスコ・ダ・ガマが水先案内人を雇った都市の名(マリンディ)などは完全なトリビアで、私も知らなかったし、知っていても学習の到達度を見るのに適切かといったことがある。ほか、ダホメ王国の歴史など、こんなものどうでも良いだろうといったものがあった。

 スペインの東インド会社は知っていても、西インド会社の方は教科書にも載っていないし、歴史的にもあまり大した代物ではないだろうといったことがある。トルデシリャス条約の改訂版であるサラゴサ条約の方は別に知らないでも良いだろう。それ専門の研究者ならともかく、受験生には他にも勉強しなければならないことがある。

 まずいと思ったのは、GPTの正答率が5割だったのは、提示された肢が各々解釈の分かれる内容で、正解を決めるのに引っ掛けまがいの方法が多用されていたことがある。「誤っているものを選べ」という設問ではバタヴィア(ジャカルタ)の所在地がスマトラ島とあり、それが正解となっていたが(正解はジャワ島)、実はそれ以外の肢も必ずしも正解とは言えないようなものがあった。先のダホメ王国も「フランスに植民地化された」が正解だったが、その他の肢も全て誤りとは言い難いものだった。

 インド原産のキャラコの歴史については、正解は「イギリスでは在来の毛織物業者と対立し、しばしば輸入禁止の措置が取られた」だが、GPTは不正解とし、この輸入が業者に改革を促し、産業革命に繋がったというものになる。不正解とはいえない。実際の歴史では廉価で彩色も容易なキャラコは中下層階級に普及し、何度か輸入停止の措置が取られたものの効果は不十分で、やがてジョン・ヘイが飛杼を発明し、これが産業革命の嚆矢となってインドに逆輸出した歴史があるからだ。「キャラコ裁判」だけを例に取れば解答は正解だが、より大きな流れを見る点ではGPTに軍配が上がる。

 その部分だけは指導要領ということで、正答を判定するに引っ掛けまがいの方法を多用しては合否は運頼みということで選抜とはいえないし、さらにまずいことにはこういう普通科の学生では手も足も出ないようなものは大学側からの事前情報の有無が合否を分けるといったことがある。受験機関(それも程度の善し悪しがある)の有無で合否が決まるようなものは、もはや公平な試験とはいえないのではないか? 問題を見る限りにおいては、エリート大学ほどあざといテクニックを多用している傾向がある。知らず知らずのうちに特定の階層、傾向を持つ学生ばかり集めていて、その他の学生には門戸を閉ざすようなものになっていないか?

 対象とした各々の大学の問題は、考える力を養うようなものでは全然ないと私には見えたが、そういう力を養うにはむしろGPTが出した回答(不正解)を見直した方が良いとも感じた。これが人間だったら、こういった答えを出す学生こそ将来の研究者や管理職にふさわしい人材だろう。人間側の姑息さの方が目立つようなテストになってしまった。これではいけない。

 とはいうものの、こういった問題相手に数時間格闘してみると、近世ヨーロッパ史の勉強にはずいぶんなるということがある。高校世界史の授業で同等の成果を挙げるには1ヶ月は必要だろう。習熟度は3~4割もあれば良い方で、この点でもGPTの方が主体性でも記憶の定着の点でも勝る。

 何でもGPT頼みで良いかといえばそんなことはなく、良く出来た参考書の場合はむしろ使わない方が学習が進むことがある。そういう場合は教科書通りに進める方が良く、GPTは補助的に用いるのが良いが、それすら必要ない場合もある。著者により結構差があり、同じシリーズでも実際に手にとって見ないと分からない。

 こういうことを書くとオススメはとか、どの参考書が良いかと言い出すバカが必ずいるが、私の意見としては教師や参考書に優劣を付けることには反対である。確かに違いはあるが、かなりの部分はGPTや個人の努力で埋めることができ、教師への信頼は学習の重要な要素であることから、批判は間違っていると言っておきたい。たまたま出会ったものを要領よく使えば、それで十分なのである。

 教師については、教育における人格的接触がお題目ではなく今まで以上に重要になっていると強調しておきたい。知識については先回りされたり、むしろ凌駕される可能性さえある。が、未熟な人間の知識はいびつで、先の入試問題にも見られたような偏ったバランスの悪いものになりがちである。それを正すのは教員個人の人格でしかありえない。人工知能の時代においては、知識をひけらかすだけの人間はもはやお呼びではないのである。

 

(補記)

 やってみて思ったが、大学教授がウンウンと知恵を絞って港区のチンピラまがいのつまらない問題しか作れないのであれば、学習の習熟度については内申書で判定ができることから、人工知能を積極的に活用して問題はいっそ論文式、全問書かせてAIを判定支援に使い、合否を決めた方がむしろ良いのではないかと思えはした。教育は詰め込み式の後進国型から個人の資質や創造性を重んじる育成型に先進国の教育は切り替わっている。学習に必要な時間もあり、また、ニーズも目まぐるしく変化していることから、韓国まがいの受験行事や新卒一括採用といった見かけだけの制度は発展の足を引っ張るだけでこれからの世界にはむしろ役立たず、体裁だけ繕って国家ごと沈没するような有害無益なものに成り下がっており、ここは新しい器が必要なのではないかと思えることがある。

 

(補記2)

 法政大の山口教授とはこのサイトでもいくらかの付き合いがあるが、齢70近くになると以前の新進気鋭の政治学者も陳腐なたわ言をのたまうようである。そもそも写真が偽装表示である。鈴木一人と同じく、実物は白髪白髯の老教授である。

 

 

 「悪意」が既知と同じ意味だというのは法学部では常識だが、それ以外では必ずしも常識とは言えない。言葉尻を捉える小技は左派やネットウヨクのお家芸だが、こういったことはGPTの方がよほどうまくやるのである。そういえば彼は「忖度」という言葉の元祖であった。今となっては恥ずかしい。

 

 

 数値を記録してクエリで検索できるようにするのはSQLや30年前のロータス123の時代の発想である。DT(デジタル・トランスフォメーション)をこの程度でしか捉えていないことがまざまざと見え、しかも「添付を義務付ける」と書くことで(愚かしくも)書面申請併用の「半ライン処理」まで推奨している。人工知能の時代に太刀打ちできる認識とはとうてい思えない。迂闊な一言でこの人物が現代のテクノロジーに無知なことがバレてしまう。

 

 たまたまネットを見て、目についた犠牲者を挙げたが、これらの場合、バカなのは彼なのではなく、この程度の言の葉に踊らされる民衆の方である。こんなものは通用しないようにしなければならない。

 

 いけにえは他にもいたら少し渉猟しておきたい。

 

 先にキッシンジャーについて少し触れたが、昨年の論考でウクライナと同程度に触れられていた内容には戦争で投入されたハイテク兵器がある。全体主義とAI兵器の組み合わせは人類における最悪の敵で、彼が早期の停戦を求めた背景には戦争がその流れを加速することへの懸念があった。

 これについてはザルジニーも若干触れており、ロシアが旧式兵器を廃してハイテク部隊に移行しつつあることは確実視されているが、一将軍が大統領の頭越しに私見を公表することは戦時下の国家ではありえないことなので、ジ・エコノミストの記事については少なくとも米政府の承諾があったものと考えるのが自然である。ここにもキッシンジャーの影がある。現状は老外交官が1年前に書いた内容にごく近いものになっており、ザルジニーの論考も概ねその線に沿ったものになっているからだ。

※ キッシンジャーには”Diplomacy(外交)”という大著があり、邦訳もあるが、私もウェストファリア条約の下りで挫折したため、最近の彼の論考は彼のウェブサイトで読んでいる。件の論考はワシントン・ポストに寄稿したものである。

 が、ある考えを伝えるということは、どんな場面でも思ったより難しいことである。私も良く誤解したし、また誤解されたりもした。先にキッシンジャーについては練達の外交官ではあるものの、所詮オブザーバーで、米政府には何の地位も権能も持っていないことは指摘した。

 私個人の経験でも、良い考えは人に半分も伝われば良い方で、たいがいは曲解され、本質的な部分は無視され、あるいは場違いに適用され、効果がなくなってしまうのが普通である。が、キッシンジャーの立場では誤った適用をされていてもそれを修正したり、方法を変更したりといったことは即座にできないことがある。

 このことは案外常識となっていない。例えば選挙のたびに敗戦する我が国の野党には学者のブレーンがおり、つい先ほども野党共闘の提案をしたが、実践の結果はお粗末なものであった。その都度、彼らは「考えは悪くない、悪かったのは(アドバイスした相手が)指図通りに動かなかったからだ」と自己弁護するが、そもそも真髄を伝えていたのか、そのための努力も説得もしたようには見えなかったことがある。小沢一郎のように誤解されたまま新党結成に突き進んだ例もあった。これは現在では人材の質の悪さという野党最大の弱点になっており、これを取り除くのは容易ではない。

※ そういう事例もあり、私は人との会話で「誤解」という言葉を禁句にしている。この言葉は頭の悪い人間が使う言葉だと見做しているからだ。

 キッシンジャーがドンバスにつき民族自決を示唆したことは、この場所を戦場にしても良いという考えがあったように私には見える。戦闘で統治が崩壊しない限り、すでにロシアに併呑された地域の住民投票など不要で、ロシアも認めるはずがないからだ。こと戦闘とその手段に関しては、彼はあまり制約を設けなかったように見える。戦闘を早期に終わらせる方策につき、彼はベトナム戦争ほどの制約も主張していない。むしろ長期化が恐るべき結果を招くと危惧していた。実際にウクライナ軍を掣肘したのは彼の論考を誤読したワシントンの戦略家たちである。

※ そもそもドンバスはマイダン革命を受けた親ロシアのウクライナ人がロシアの支持を受けて独立した地域である。クリミアはロシア人が住民の70%で、単純に占領したから再併合できるといった地域ではない。

※ ソ連崩壊以降、鉱業地域だったドンバスは荒廃し、ウクライナ政府の支援も不十分で反キエフ意識が醸成され、治安も乱れていたことがある。

 論考には核の記述もない。彼はロシアの統合が崩れて内戦状態になることは危惧しているが、プーチンがウクライナで核を使うとは考えていない。仮にウクライナ軍が結集してロシア軍を押し返し、ハリコフからベルゴロドに進んでモスクワを指呼の間に収めたとしても、そこから核戦争に移行するまでには十分な時間があり、仲介の労を取る余地があると見ていた節さえ感じられる。おそらくはそうであろう。

 キッシンジャーの先達にはやはり卓越したケナンやアチソンがおり、彼は独創の人というよりは先達の偉業を堅持した守成の人という印象であるが、彼が提示した戦略が結果としてゼレンスキーと軍部の離間を招き、ウクライナの国力を弱めたことはある。おそらく彼の企図するところではなかったが、追従者たちの一知半解の行き着く先が排除の論理であることは、我々も「悪夢のような民主党政権」で散々見聞きしたことである。

※ 政権と軍部が不和となった場合、国力に劣るウクライナには降伏以外の道はない。この種の謀略を弄してアメリカが他国で失敗した例は枚挙に暇がない。

 戦争で両軍とも疲弊したので、ここは時間は掛かるが「正しい」プロセスを進める方が良い。プーチンが完全自動の殺戮ロボ軍団を手にするにはまだまだ時間が必要だろう。その間にウクライナのEUとNATOへの加盟を促し、荒廃した国土を再建し、政治を改革して各地に散った難民を故郷に戻すプロセスを進めることが大事である。拙速である必要はなく、政治的かつ道義的に、正しいことを積み重ねていくことが後に生きてくる。ウクライナは健康な政治さえ取り戻せば、現実主義の老外交官の書いた処方箋は、以降は必要のないものになるに違いない。

 

※ その逆をやったのが2010年代の民主党政権で、これは党も分裂した挙げ句、日本人の政権交代への希望を絶望的なものにした。その傷の深さは今になるとまざまざと見えるものである。

 

※ ウクライナとハンガリーの関係はソ連崩壊の時代にまで遡る複雑なものだが、現在のオルバン政権の反発は民族問題やパイプラインというより、大統領のゼレンスキーに対する個人的な確執があるように見える。ポーランドでは戦争による機会損失が国境でのトラック運転手の抗議活動に繋がっているが、これらについてはウクライナは都合の良いところだけEU基準、その他はウクライナ基準というダブルスタンダードを止めなければならない。

 

※ 2010年代の我が国における民主党政権の蹉跌も連立を構成する個々の政治家の確執は現在から見れば互いの違いはごく小さいものであった。最大のものは鳩山由紀夫率いる旧民主党と小沢一郎率いる新生党出身者のそれであったが、互いに僅かな相違を譲歩することができず、またより異質な傾向を持つ社民党シンパのブレーンが対立を煽ったことで分裂は決定的なものになった。個々の政治家やブレーンの小さな自尊心と卑小なプライドがようやく得た改革の機会を恒久的に葬り、災害と政治的混乱もあり、国民はわずか数年で民主党を見限り、守旧的で腐敗した自民党政権の復権を歓呼して迎えたのである。

 

※ 民主党政権をゼレンスキー、自民党をドンバスのロシア派やプーチンとすればウクライナでも似たような状況がある。

 

 共和党がウクライナ支援に反発していることから、反転攻勢が中止された後のウクライナは予算不足と兵器の枯渇が囁かれているが、前進は僅かだったものの、アウディウカ・マリンカの拠点防衛に成功し、クビャンスク・リマンではロシア軍の浸透を食い止め、南部ザポリージャでは巨大要塞相手にあわや失陥まで追い込んだ国の評価にしてはひどいものである。

 一連の戦いで現代軍隊としてのロシア軍は北海艦隊と空軍を除きほぼ壊滅したが、そのことに対する褒賞もない。プーチンは喜色満面で国民対話に応じ、AIプーチンを相手に特別軍事作戦は進めるとし、ロシア経済は健在で、ボロボロに打ちのめされた戦争の勝利を微塵も疑っていないように見える。何がまずかったのだろうか?

 月初に100歳で死去した外交専門家ヘンリー・キッシンジャー氏は昨年の12月にウクライナ戦争についてコメントしているが、影響力のない人物ではなかっただけに、氏の見解は戦争の進行に大きく影響したように思う。氏はウクライナについては2022年の国境で停戦することを求めていた。事実上ロシアの占領下にあったドンバスとクリミアについては、民族自決による解決も提案しており、ゼレンスキーを大いに怒らせたことがある。

 キッシンジャーは米国外交史の巨人であるが、彼の全盛期は半世紀の昔であり、以降は外交に影響を及ぼしつつもその立場は顧問や識者としてのそれであって、米国政府内に何の役職も権能も持っていなかったことには留意する必要がある。確かに長年の国務省での奉職で得た人脈や知見には侮りがたいものがあるが、彼は政策立案者でも執行者でもなく、晩年の立場は我々と同じいわば外野の一員であったことがある。

 地位や権力から離れ、透徹とした視点から見れば、彼の言い分は多くの点で正しいだろう。占領から長年月が過ぎ、住民も強制移住させられたドンバスやクリミアの再併合は2022年以降のそれよりも簡単ではないはずで、ロシアについてはこの2年間の誤ちのみ認め、停戦と引き換えに残った部分は目を瞑るというのは現実的な考えに見えないこともなく、ウクライナを支援するアメリカ政府関係者にも実現の容易な案と見えたことは想像に難くない。が、そこにオリジナルと模倣者の違い、師と弟子の間にある越えられない壁があったと見るのは私だけだろうか。

 キッシンジャーは停戦は2022年の国境線に沿ってと言明したが、その方法については言及していない。が、ISWや軍事コンサルタントの立てた作戦計画はロシアの南部管区軍が占領した地域をナイフで切り取るように「奪還」するものであり、そして、ご丁寧なことに奪還した時点でウクライナ軍の戦力が尽きるように計算されていた。これは戦理に反するものであり、また、ジョミニ戦術は軍事専門家には理解できてもウクライナの政治家やバイデン大統領には理解不能なものであった。

 これはおそらくキッシンジャーの企図ではなかったように思われる。欧米から与えられた兵器を使い、ウクライナ軍は予想以上の奮戦をしたが、戦場のグランド・デザインがそもそも間違っていたのである。ザポリージャでは攻撃の何ヶ月も前からISWが攻撃地点を繰り返し連呼しており、ロシア軍が大要塞を構築する時間は十分にあった。BBCは衛星写真を公開してザポリージャへの攻撃が大きな犠牲を伴うものと忠告したが、動き出した歯車を止めるには至らなかった。キッシンジャーの弟子たちは師の意図を中途半端に咀嚼し、誤った解釈をしたのである。

 限られた戦力を結集してロシアに軍事的、政治的打撃を与えるなら、最善の方向は西から進軍しドネツク・ルハンスクを突き通す線である。進軍距離にしてルハンスクまで100キロ程度の距離であり、ドネツクの占領は一地方都市でしかないメリトポリより政治的効果がはるかに大きい。また、アウディウカからドネツクまでの距離は数キロしかなく、トクマク要塞までの30キロ超よりはるかに短い。空からの攻撃も分散した諸部隊を対空ミサイルで個々に防護するより、大部隊を集中的に防護する方が発射台の数もはるかに少なくて済む。全軍でドネツク市内に進軍し、瓦礫の山と化したドネツク市役所でゼレンスキーが奪回を宣言すれば政治的効果は満点だろう。

 キッシンジャーの提案の解釈には幅があり、停戦交渉の話はそれからすれば良かった。その結果、国境線を2022年の線で引き直すにしても、住民投票で帰趨を決めるにしても、それは戦勝の果実と言うべきものであって、奪われた部分を律義に外科手術のように切り取る必要はない。政治的現実と軍事的現実は違う。「君命に受けざる所あり」とは良く言ったものである。

 「故上兵伐謀、其次伐交、其次伐兵、其下攻城」とは、孫子謀攻篇の言葉であるが、謀を十分に巡らさずして、徒に攻城戦を行ったのが今回の戦いであったように思われる。結果も「將不勝其忿、而蟻附之、殺士三分之一、而城不拔者、此攻之災也」というものになっているが、ウクライナにもう一度反転攻勢の機会があったなら、ここは良く考えた方が良い所である。

 アメリカの共和党議員については、国民の負担など、もっともらしい反対意見を述べているが、これを封じるのは案外簡単なことである。あの国には有名な「明白かつ現在の危険」の法理がある。大手メディアがあからさまな金銭の授受を除き、議員のセックス・スキャンダルについては報道しないと協定を結べば、彼らも民主共和制の代議士として有権者の代表にふさわしい行動を取るはずで、策を巡らすとはこういうことである。アメリカ国民もバカではない。ウクライナでロシアを勝利させた結果がどんな災いとなるか、分からないような文盲揃いではないはずである。

 

 京アニ放火事件は弁論が終了し、検察が死刑を求刑したが、長々と続いた口頭弁論が京アニと遺族による単なる復讐ショーと化してしまったことには失笑を禁じえない。検察の求刑も「たくさん殺しすぎた」ことが骨子になっていたが、そんなつまらん理由しか付けられないなら、いっそ裁判などせず、被告の身柄を遺族に引き渡し、煮て食うなり焼いて食うなり好きにしろと言いたくなる。

 犯罪はごく正常な判断力を持つ人間が故意または過失で他人の生命身体に危害を加えるか社会規範を逸脱することで成立するが、その論理から判断力を持たない人間の罪を問うことはできない。激情に駆られたり、あるいは精神に異常のある人間は規範を認識することができず、そういう人間に犯罪学の論理は成立しない。

 無論、私は青葉の死刑に大賛成だし、熱傷3の被告を救命した医師には「余計なことをした」と偽善ぶりに少し腹を立てているけれども、首吊りでもノコギリ挽きでもそれで遺族の応報感情が償えるとは思えないし、結局のところ、彼は自分の犯した罪に向き合うことなく絞首台の露と消えることになる。それが分かっていたから、青葉の助命は「余計なこと」と私には映ったのである。とはいえ、法廷で被告を罵倒して鬱憤を晴らした遺族もいたには違いない。

※ むしろ放火で青葉が死んでいたらどういう裁判になったか。吊るし上げられたのは青葉ではなく、京アニの社長だったのではないか?

 量刑相場、二人以上殺せば死刑という基準も、実は明確な根拠があるわけではない。強いて言うなら「見せしめとして適当な」措置というだけにすぎず、そこにあるのは遺族ではなく行政の都合である。青葉が放火して京アニ社屋が炎上し、奇跡的にガソリンを被った青葉以外誰も死ななかったとしても放火罪で死刑は課し得るが、検察はあえて被害者数を取り上げ、殺人罪として問責している。復讐裁判にはお似合いの検察官と裁判所である。

 犠牲者が法外な数に上った背景には、京アニ建物の特殊な内部構造がある。3階建物だが各階は特殊な階段で連結され、構造は木造部分が多く、スプリンクラーも設置されていなかったため、最初の着火による延焼を防ぐことができず、また、非常口も施錠されていたために、屋上に避難した社員も一酸化炭素中毒で次々と倒れていったことがある。

 が、建築学の知識のない被告人が、一見普通の会社の玄関でガソリンに火を点けたら建物全部が丸焼けになると想像できたとはとても思えず、丸焼きにするつもりなら行儀良くインターホンのボタンを押すのではなく、もっと違った方法を取っただろうと思えるし、京アニが扇動している狂乱を離れたなら、それが正しい認識だろう。

※ 玄関で着火しただけで居住区全部が丸焼けになった例は模倣犯で犯人も死亡した大阪のクリニックの例があるが、どちらも消防法の基準は満たしていたとはいえ、構造に問題があったことは否定しようがなく、欠陥があるのは京アニや西梅田クリニックの医師ではなく、誰が見ても明らかな物理化学的な問題点を放置した建築基準法なり消防法なのである。

 さらに被告人質問で明らかになったのは被告の精神年齢の幼さである。貧困と生い立ちのため人格を発達させることができず、他責的な性格は供述のあちこちに見られたし、それが遺族の感情を逆撫でしたことがある。精神鑑定も割れており、人格を否定され、経済的にも追い詰められた被告の責任能力には大きな疑問符がつく。

 被告は盗作を主張していたが、その作品自体については本人が処分してしまい現存しないまま尋問が進められたことがある。盗作の主張は被告が唯一自己を正当化できる部分で、それなりに微に入り細に入り説明していたが、原本がないことにはどうしようもなく、当初私は投稿した京アニが提供したのかと思っていた。が、それもなかったようで、証拠のないそれは無意味で勝ち目のない主張である。

※ 京アニは作品コンクールを主催していたが、投稿された作品は返却しないという扱いをしていた。今どきミニコミ誌の投稿欄でも投書が集まらず編集者が書いて投稿しているというのに、知名度のないイベントの投稿小説がそれほど多いとも思えず、返送用封筒を同封させて返送する手間がそれほど大きいとは思えないことがあり、この投稿作品に対する扱いが同社の盗作疑惑を払拭できないものにしていた。


 小説の下りは、強いて言うなら、「ああ、こういう人なんだな」という印象を世間に周知させたくらいで、この部分を全く無視するか省略したとしても裁判は進められただろう。結局検察もまとめられなかったので「妄想」と書くしかなく、ほか、京アニ女監督への要らない横恋慕など、世間受けを狙った裁判長の訴訟指揮には大いに疑問の残るところである。

 弁護士もイマイチである。事件というものは、それは一つ一つは個別具体的で特殊だが、取り纏めると驚くほど類似しており、体系化が可能なものである。刑事学や犯罪学はその基礎の上に成立し、裁判も業として成り立つのはその定型性による。見たところ、裁判官や検察官は事件につき型通りの応対しかしていない。交通事犯と大差ない心的態度で臨んでいたといえ、検察官が放火を無視して殺人事犯として審理を進めることは、実地に見聞していた弁護人なら容易に予測できることである。

※ 投稿青葉の盗作吊し上げショーなどは腐った審理の最たるものだろう。が、裁判官が図に乗って検察の公開リンチを黙認している所に倨傲と隙があるのであり、こういうものは私だったら見逃さない。

※ 業と書いたが訴訟や公的手続に関わる仕事は業ではないことになっている。なので、私もそうだが領収書に収入印紙は貼らなくても良いことになっている。が、同じ人間が犯罪事件を継続反復して扱うのは業と言わずして何と言うのだろう。

 が、殺人事件として見ると被告の責任能力や認識には大いに問題がある。本人がガソリンを被って実体験したから行為が殺人に繋がることを理解できたと思うが、そうでなければ理解できなかったと思うし、それに被告は積極的に被害者にガソリンを振りかけたわけではない。死亡者の大半は一酸化炭素中毒である。自らもガソリンを被り、丸焼けになって逃げ出した被告は被害者の大半を目にしてもいない。

 精神状態については、あれだけ追い詰められた状態で、しかも窮境を克服する知性も学問もなかったことを見ると、放火という行動が被告にとってそれほどハードルが高かったとは思えず、社会規範による制止も、それが役に立たないほど追い詰められていたと思える様子はいくつかある。

※ 放火は成立するが、殺人罪は成立しないのではないかという疑いがある。そして無罪の余地があるにも関わらず、国家が検察と裁判官による広範で恣意的な法運用を認めることは、国民が自らの手で自分の首を締めることであり、民主主義を否定するものである。

 証人尋問の終わりに、ツルネの脚本の執筆に参加したという京アニの若い社員が盗作について否定し、法廷で被告を面罵したが、この京アニという会社については弁論の最初から最後まで、視聴者に責任を持ち、より高い品性と理性で作品を世に問おうという姿勢は見られなかった。遺族と一緒に復讐ショーに加担し、被害を拡大させた欠陥建築は棚に上げ、投稿した作品を返却しなかったことで盗作疑惑を掛けられても仕方がないという立場でありながら、青葉の人格否定に躍起になっているこの会社と社員を見ると、一つくらいはまともな言い分もあって良かったと思うが、一つもなかったので、私は元々京アニ嫌いだけども、ため息の出ることしきりである。

※ 絵が上手い以外に評価も採用基準もない会社と考えている。だから下請けでは有能だが、作品には見るべきものがない。社長は被害者でもあるが、多くの社員を死なせた環境を作った責任者でもあるのである。残念なことにその意識は欠片も見られなかった。

 青葉を面罵した28歳アホ社員には、自分が逆の立場だったらどうなのか考えて物を言えと言いたい。こんな程度の人間が脚本など書いていると思うとゾッとする。読み捨て書き捨ての10分経ったら忘れるようなコピーしか書けない男だろう。

 芸術的感性や品性というものがカケラでもあったなら、たとえ証人尋問の美意識皆無の実用文でも名を惜しむものだ。公の場で感情に任せて罵倒するなどということは才能のある人間は絶対にしない。それが実用文しか読めない芸術的感性ゼロの裁判官や検察官相手であっても。

※ この男が制作会議で青葉の名を聞かなかったとしても、おそらく事実だが、盗作疑惑を打ち消すものではサラサラないことは言うまでもない。盗作といってもしようはいくらでもあるからだ。

 つまり、私は京アニという会社には問題があると思っている。放火され、社員が大量殺害されるほどの問題はなかったはずだが、彼らの裁判での証言に品格がなかったことは本当である。土建業や板金工場ならそれでも良いが、世の中扇動に惑わされる人間ばかりではない。

 青葉については、間違った裁判もあるが、おそらく自分の何が悪いのか分からないまま死んでいくことになるだろう。19世紀の産業革命の時代、工場労働者として田舎から追い出された農民が都会で貧困化し、犯罪を繰り返す常習犯というカテゴリーが創出された。破産法が整備されたのもこの時期である。強盗を繰り返したり、重い借財を背負って破産するような人間など、以前は奴隷(どれい)に落としてしまえばそれで良かったが、そうも行かなくなったのがこの時代である。そこで犯罪の原因が考究され、対策が必要という結論に落ち着いた。一部の犯罪者にとっては、社会復帰するより刑務所に居る方が快適という状況さえあったからだ。

 閉廷前の意見陳述で、放火前の生活より拘置所にいた方が快適とのたまった青葉には19世紀の犯罪者と同じく、明らかに彼を追い詰めた構造的要因がある。今は19世紀ではないし、青葉もそれなりの扶助を受けていたが、大昔に作られたフォーミュラに自己安逸するのは裁判官と老いぼれた刑事法学者だけで十分である。が、この裁判所がその真実に迫ることはおそらくないだろう。

 

 この事件はより大規模に、より悲惨に再生産される可能性がある。19世紀と同じく、現代の資本主義は歪み、病理があやふやに見える時代でもある。だから構造的要因については一歩下がって考究する必要があったことがある。

※ 京アニも遺族も死刑以外の判決はあり得ないような勢いだが、刑法とはコミュニティの規律である。彼に死刑を認めるということは、処刑がコミュニティの構成員に教訓的効果を持つことを肯定し、彼がコミュニティの一員であることを積極的に認めることである。被告の態様を見るに、それでは解決にならず、むしろコミュニティから排除し、改善教育処分に処す方が適切だというのは、京アニの建物がノーブロックの欠陥建築であったことと同様、事象を平明に眺めれば明らかなことである。

 

※ 刑罰とコミュニティからの排除を並立する法執行は我が国では認められていない(無罪にするしかない)が、欧米では保安処分として一般的である。


 事件は本当に痛ましい。だからこそ、この裁判は文句のつけようのないほど理知的に、事実と証拠のみをもって進める必要があった。日本の裁判に失望したのはゴーン事件に続き二度目だが、プロの訴訟業者がこんな程度の裁判しかできないのなら、いっそ大昔のように熱湯に手を突っ込むとか、遺族に引き渡して磔(はりつけ)なりノコギリ挽きなりにした方がまだマシだろうし、判決文は読むまでもないが、読んでため息が出るようなものであることはあるだろう。

 遺族についてはたとえ青葉が処刑されても、失われた命は帰ってこないことは特に強調しておきたい。応報感情に任せて罵倒した所で、この被告は反省もしなければ謝罪することもなく、理不尽という感情を抱いて消えるだけである。そういう者への罵倒は空虚さ以外何も残さない。で、あるからして求めるべきは完璧な裁判であり、その審理は死者への礼節を欠き、後になればアラがわらわら沸き出るような出来の悪い復讐ショーではなかったはずである。
 

※ こういった犯罪を見ると、改正刑法草案では論議された保安処分についての議論を我が国でも始めるべきであるように見える。死刑によってもコミュニティからの排除は達成可能だが、この刑罰には問題が多い。刑罰と治療措置を併科する保安処分の方がキメの細かな対処が可能であり、社会防衛も教訓的効果も勝ることがある。

 

※ 自棄犯の代表、死刑となった宅間守や加藤智大の名前など、今は誰が覚えているのだろうか。死刑に威嚇的効果などなく、あってもごく限定的な、ある国民の集団精神錯乱か信仰に近いものである。

 

※ 最初に青葉の死刑には大賛成と書いたが、私個人の感情としてはそうである。しかし、理性の部分ではむしろ否定に傾いていることも本当である。そして感情と理性が背反する場合には理性を優先するのが、私にとっての通常の判断である。