前回は感想らしい感想を書かなかったが、昨年のシーズン5から前半と後半に分かれて公開されたシーズン6はそれまでの作風からするとやや冗長で退屈な話である。制作途上でエリザベスが崩御したこともあり、特に後半は大幅なリテイクが噂されていたが、そんなことはなく、かねてから評判通りのラストになったことはやや落胆もするし、話自体はそれなりにまとまっていたので、後の女王(17年もある)をテーマにした続編を期待する向きもあるが、私としてはいかにもイギリス人らしい終わらせ方だと思っている。作者のピーター・モーガンのしたり顔が目に浮かぶようだ。
視聴を終えた後に思い出したのは全然王室の話ではないが、田河水泡の「のらくろ」である。実は後日譚があり、軍を辞めたのらくろが様々な職業を経て喫茶店の一店主に落ち着く話がある。実は私はこちらの話の方が好きである。
事情を話すと戦前に大人気だったのらくろは日中戦争の戦況悪化で軍部から睨まれ、連載中止の憂き目に遭っている。これは野良犬だったのらいぬ黒吉(黒犬である)が一兵卒として猛犬連隊に入隊し、持ち前の機知と機転で士官にまで昇進する話で当時のサクセス・ストーリーだったが、「犬が軍人なのはけしくりからん」という当時のしみったれた(戦況悪化による)憲兵の指図で中断されたものらしい。が、戦後になって再開され、ストーリーは以前とはまるで違うものになった。実を言うと、以前の話を知っていると読むのは少しつらい話である。
※ 作品によると大陸にある豚の国にいじめられていた羊の国を助けに大陸に渡ったのらくろたち犬の国は豚勝将軍の豚軍に勝利するが、豚の国の背後にいた熊の国の陰謀で猿の国との戦いに巻き込まれる。猿国とのらくろたちの戦いは決着が着かず、双方とも疲弊して休戦する。リーダー同士の話し合いで双方とも武装解除することになり、猛犬連隊は解散して、解雇されたブル連隊長やのらくろたちは市井に戻って一から出直す事になり、これが後期のらくろの前日譚になる。
※ のらくろは猛犬連隊時代は階級章とベルト以外衣服らしいものを身に着けていなかったが、除隊後は服を着るようになるなど、作品の雰囲気はかなり違う。
のらくろは猛犬連隊では大尉まで昇進したが、市井の彼は天涯孤独の一介の浮浪者にすぎず、かつての部下の中には彼より出世した者もおり、世渡り下手の彼は様々な失敗をし、自分が世間知らずであることを思い知らされる。威厳のあったのらくろの上官ブル連隊長も借金で労働者の吊し上げを受ける始末で、それまでの世界観がガラガラと崩れ去っていく所が人によっては受け入れがたいものである。噛めば味が出るスルメのような話が多く、最後は居候していた下宿屋の娘と結婚してハッピーエンドで終わるが、披露宴では参集したかつての仲間たちが様々な人生を歩んでいたことが明らかになる。
※ 田河が続編をこういう話にした背景には、戦前に彼の漫画を読んで出征した読者の子どもたちへの責任感があったと思われる。後編でののらくろの年齢は年表によると30代なかばから40代で、中年と言える齢であり、田河はいい歳をして慣れない世間でさまざまな挫折を経験するのらくろを通じ、新しい読者ではなく、復員したかつての読者にエールを送っていたのだろう。この読者への視線の暖かさが作品を単なる戦争活劇物とは一線を画したものにしたことがある。
田河は優秀なストーリーテラーであったことから、こういう話にしたことには狙いがあったに違いない。ここでのらくろがかつての知識を活かし、再編された猛犬自衛隊に入隊して活躍する話では以前と同じであるし、それでは自身に何の内省もなく、老いてサラリーマン人生を続ける島耕作と同じになってしまう。弘兼兼史の作品はたぶん来世紀まで残らないだろうが、のらくろは多分22世紀でも残るだろう。そのくらいのストーリーの大転換をしたことがある。こういう例を私は他に知らない。
シーズン6に話を戻すと、この話ではモーガンは女王から虚飾を削ぎ落とし、ごく平凡な80歳の老女の視点で話を構成している。彼女が思い出すのはマーガレットと市井に繰り出した60年前の光景であり、ほんの僅かの期間だったマルタ島での一主婦としての思い出である。王室やイギリスの未来について考えることはなく、自分を傍観者とし、荘園で趣味の馬の世話をしつつ、時代遅れの人間として日々を過ごしていることがある。
※ そういうコンセプトから、女王が存在感を示したロンドン・オリンピックやプラチナ・ジュビリー、コロナ禍における2019年の演説は対象にならなかったと思われる。作者の関心は「偉大なエリザベス」ではなく、一女性としてのエリザベス・ウィンザーである。
実際のエリザベス女王は私生活ではウィットに富んだ人物として知られていたが、重厚に構築されたドラマで最も彼女らしいスピーチをしたのは息子の結婚式だった。こういった話は、たぶんシーズン1~5では容れる余地がなかったと思われる。
※ 女王について取材をしていれば、エリザベスが類まれなユーモアの持ち主であることは容易に分かることだが、王冠の重圧と責任感をテーマにしたドラマでは扱う場所がなかった。ラストのスピーチは作品の完全性を求めるためにどうしても必要な場面だった。
※ 同じようなユーモアのある場面は6-5の英国婦人会のスピーチでも描かれており、ここではエリザベスの方が後にスピーチしたブレアより岩盤支持層である婦人たちの心を掴んでいた。エリザベスが聴衆を湧かせる場面はシーズン6にしかなく、同シーズンの顕著な特徴となっている。
そしてダイアナの死については、彼女の取った手段はテレビやラジオを撤去しての引きこもりという後ろ向きのもので、同じような状況に直面すれば、同じような齢の女性は同じように困惑するだろうということがある。その当たり前のことをシーズン6では躊躇なく映像化している。
「ねえ、そこのおばあちゃん、あなたがこんな目に遭ったら困るでしょ、彼女も同じなんですよ。」 それがたぶん、モーガンの言いたかったことである。
※ 同様に息子を殺されたモハメド・アルファイドの心ない非難に対しては、女王である彼女の地位は小揺るぎもしないにも関わらず、動揺する姿が描かれている。
トニー・ブレアは以前モーガンが脚本を書いた「クィーン」では洗練された貴公子だったが、クラウンのブレアはとにかくいやらしい。ギラギラしたニヤけ顔が不気味な男で、謁見室での態度も歴代首相の誰よりも図々しい。が、それが彼女から見た新世代首相の像なのである。そして、彼の語る内容にほとんど関心がなく、幾分の不快ささえ感じ、湾岸戦争や911、イラク戦争にほとんど関心を示さないのも裸の彼女がそのようなものだからである。そして妹のマーガレットはそれまでの不養生が祟り、脳卒中で苦悶のうちにその生涯を終える。
※ 実際のエリザベスはこれらの事件に対してイギリス君主らしい態度を示しており、節度のある対応をしている。例えば911では衛兵交代式でアメリカ国歌の演奏を指示し、イラク戦争ではブレアと反対の立場を取ったとされ、首相経験者としては異例なこととして、2022年までガーター勲章を与えなかったことがある。
※ エリザベスが時の首相と対立した事件は4-8のサッチャーとの対決があるが、この時は一話丸々を両女性の駆け引きに割いている。それに比べるとシーズン6の描写は非常に淡白である。
実際のエリザベスがドラマで描いたような人だったか、あるいはもう少し違う像があるのかは、もう少し時代を降らないと分からない。ビクトリア女王も後年の評価では当時言われていたほどの偉大な女王ではなかったことがある。その判断の余地を残した点、シーズン6はそれ自体ではどうということのない話だが、ザ・クラウン全シリーズにおける不可欠なピースを構成していることがある。