自民党のパーティー券キャッシュバックが政治資金規正法違反として取り沙汰されているが、もし金銭にラベルというものがあったなら、「キャッシュバック」と書かれた紙幣は全て無効にしてしまえば良く、仮に不正が起こっても、不正が利益にならないような仕組みを作れば良いのではないかという考えもある。

 もちろんそんなことはできず、不正に領得された金銭は受領者の財産と混和してしまい、区別がつかないものになってしまうので、不正に得た金だけを分離して始末することは不可能である。しかし、考えてみれば不思議な話である。「政治とカネ」と言うが、歴史を見るとカネと政治は必ずしも一心同体といった存在ではない。むしろ政治の方が後からやってきた。

 アルゼンチンで新大統領が選出され、中央銀行を廃してドル建てに移行するといった政策を発表したが、他国の通貨を使って経済をどう回すのか、我が国では400年以上経験がないだけにイメージしづらいものがある。不換紙幣の歴史も140年あり、国家の保証のない金銭の流通のメリットは理解できない。

※ この大統領にゼレンスキーがいち早く賛意を示し、就任式にまで出席したことは彼の国も弱い通貨フリヴニャを持ち、一部ドル建て経済が通用していることによる。

 が、歴史的に見れば中央銀行システムの方がごく最近であり、古から価値の交換には様々な媒介物を用いてきた。我が国では宋銭であり、中南米ではカカオである。ここで重要なのがお約束で、宋銭千枚で銀一貫、カカオ100粒でロバ一頭といった決まりごとを互いに共有することで商品交換の経済が始まったことがある。

※ 貨幣経済とは「お約束」であること。ちなみにウィキペディアではウサギ一羽でカカオ200粒らしい。こういったことを頭に入れて読むこと。

 ここで俺ルールで二千枚、80粒でロバ一頭と言い出す者がいたらどうなったか。古の世界ではごくシンプルに違反者は奴隷か追放、あるいは死刑とし、汚れた商材は国境の外に打ち捨てることで事なきを得た。小さな共同体の世界ではそれで十分だったし、古代ローマもその式であった。自治の時代は地域ごとに異なるが概ね数百年~千年以上続いた。そこに便乗し、入り込んできたのが王権である。王権とは刀やまさかりを手に、周辺諸部族を斬り従えてのし上がった武装集団である。当然、算盤勘定は得意ではなく、根底にあるものは暴力(Power)である。

 それでも、当事者の調停に立ち、揉め事を解決する王権の存在は地域社会の平穏に一役買った。商業には物々交換のほか、「王の平和」を乱さないというルールが新たに制定され、没収や罰金が新設されたが、従来の罰も併科され、債務者の引き渡しは王の名のもとに行われ、引き渡された債務者は以前のように奴隷として使役されたことがある。古の経済は実体経済の上に権力(王権)が載った二階建ての仕組みになっていた。王権がなくても経済は回る。王権や中央銀行は商業活動に不可欠な存在ではない。元々「政治とカネ」は一つ物ではなかったが、「王の平和」を通じ、互いに持ちつ持たれつの存在であったことはある。

※ 人頭税など封建権力が家産活動を維持するのに必要な収入は、これとは別のものとして考えている。

 ここで商業活動に介入した王権が商業そのものにはならなかったことには注意されたい。近代になっての社会主義国など、それを試みた例はあるにはあったが、今では全て失敗と見做されている。敵の首を刎ねる戦いと、利潤最大化を目指す商業はどこまでも別の倫理観、別の価値基準で測られるべき存在なのである。

※ 例えば政治活動に要する経費は原則タダ、パーティー会場の使用料などは原則無償(国庫で補填する)などとしたら、政治パーティーに会費など取れるだろうか?

 今頃になってそんな大昔の話はとなるが、パーティー券を販売し、その金で影響力を買うことは政治ではなく商業に属する。商売に熱中する自民党の議員は仕事以外の事柄に時間と精力を注ぎ込むパートタイマーといえる。この難しい時代にパートタイマーに政治をやらせていて良いものだろうか?

 今の我々には政治と財力を切り離して行われる世界はイメージしにくいが、本来政治とカネは各々ベクトルを異にするものである。それを明瞭に分離して議論できないのは、単純に政治家の質が悪いか、政治も国民もまじめに政治をする気がないかのいずれかであるに違いない。
 

(補記)

 ややまとまりの悪い文章だったが、「覚え書き」では文章をまとめる気はないのでそのままにしておく。我が国の政治家は金銭に貪欲だが、初期の啓蒙思想家の時代、所有権・・・物を支配する排他的権利、は、自由の変形物と理解されていた。フランス人権宣言が人民の自由と平等とともに財産権をも保障したのは、自由とは財産の所有によって表象されるものであり、財産のない人間には自由はないという考えによる。それから200年が過ぎ、GAFAに代表される新興資本家は巨万の富を背景に我が世の春を謳歌し、どの国でも格差が拡がっているが、そういった光景はこれら思想家にはどういったものとして映るだろうか。

 

※ 「財産の収奪=基本的人権の侵害」という認識は、個人の才覚が多少は反映する商事活動の性質もあり、自由主義諸国では全般的に低調だが、我が国では憲法14条を左派と結びつけて論じる傾向が顕著なため、物価高など生活の窮乏を人権と結びつけて考える傾向が忌避され、特に軽んじられる傾向があるように思う。

 

※ 上記の考えはあくまでも18世紀の啓蒙思想家の考えで、例えば仏教などには「出家」の概念があり、喜捨によって生活し、世俗社会から切り離すことで精神や行動の自由を得るという考えもある。